芳賀矢一(渋谷区)

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  1. 林 久治 -

    芳賀矢一(渋谷区)
    設置場所:東京都渋谷区東4-10-28 國學院大學渋谷キャンパス神殿前庭園
    制作者:本山白雲(1871年10月14日-1952年2月18日、高知市桂浜の坂本龍馬像の作者)
    設置時期:1937年2月6日に除幕
    画像提供:画像提供:うさぎ屋さん
    林久治⇒銅像探索記/f 
    http://masaniwa.web.fc2.com/RW-217.pdf
    設置経緯:「芳賀矢一先生胸像」と題する説明板には、以下の記載がある。
    国文学者。慶応5年(1867)5月14日福井城下に生まれる。父の真咲は橘曙覧・平田鉄胤門下の国学者で、官社宮司、内務省官員を歴任した明治神社界の重鎮。明治17年(1884)東京大学予備門に入学。25年(1892)東京大学文科大学国文科卒業。大学院に進み、国学者で歌人の小中村清矩教授(皇典講究所教授兼務、号・陽春廬=やすむろ)の薫陶に浴す。31年(1898)東京帝国大学文科大学助教授となり、博言学(言語学)講座を担当。高等師範学校教授を兼務。32年-35年(1902)官命により、文学史攷究法研究のため、夏目漱石らと共に渡欧。ドイツに滞在し、古典訓話を旨とするドイツ文献学の理論と方法を学び、帰国後、それを基礎に、近世国学を旨とする日本文献学の樹立を提唱、精密な考証的立場と概観的卓見をもって、今日に至る国文学の攷究に新しい方法論的基礎を与えた。35年教授に昇格。大正2年(1913)國學院大學商議員。7年(1918)東京帝国大学を退職、國學院拡張委員および学長に就任。9年(1920)懸案の大学令大学昇格と、11年(1922)-12年の渋谷校地への全学移転に尽くし國學院大學を国学研究の殿堂とすべく、教学の刷新に精励、三矢重松(教授、文学博士)をはじめ、多くの優れた研究者を育て、國學院大學中興の祖と称えられている。10年来東宮職御用掛として摂政宮(のちの昭和天皇)に国典を進講した。11年東京帝国大学名誉教授。小学唱歌の制定と普及に尽し、自ら「我は海の子」「雪」「鎌倉」などを作詞、さらに国定教科書調査委員、編纂委員長として国語教育の整備に貢献。その他政府関係委員会各種委員を兼ねた。名著『国民性十論』など、著書は800点を超え、主要なものは『芳賀矢一選集』(全7巻、國學院大學百周年記念出版)に収録。13年(1924)校歌を作詞。昭和元年(1926)宮内省御用掛。2年2月6日没、60歳、護国寺墓地に眠る。文学博士。帝国学士院会員。号は故郷の九頭龍川から採って「龍江」、他に「自笑亭主人」「他笑亭主人」。和風雅号は「夢の舎主人」。この胸像は、先生の御高徳を永遠に追慕するため、10年祭にあたる昭和12年(1937)2月6日に除幕された。(校史資料課)

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