富岡宮司(江東区)

設置場所:東京都江東区富岡1-23-11 富岡八幡宮東参道 角乗りの碑横
制作者:Koh H.(多分、長谷川昂、1909-2012)
制作時期:1973年8月
画像提供:ヒロ団長、林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:富岡宮司の本名は富岡盛彦(1892-1974)。1949年に岳父・宣永の後継で富岡八幡宮第18代宮司となる。盛彦は富岡八幡の戦後復興を成し遂げたのみならず、占領軍の圧力から日本神道を護り、神社本庁を立ち上げて日本神道の復活に寄与した功労者でした。彼は人生の集大成として宗教右派「日本を守る会」の結成に取り組みました。残念ながら、彼は本会の結成直後に急逝してしまいました。周知のように、その後「日本を守る会」は「日本会議」に発展し、良かれ悪しかれ本会議は戦後の日本政治に大きな影響を与えています。そう言う意味で、「盛彦は戦後日本の右翼創始者の一人である」と言えるでせう。
本像台座正面の碑文には、次の記載あり。
富岡宮司略歴
福岡県築上郡八津田村東八田に明治廿五年一月三日生。川面凡児翁の推薦により富岡八幡宮の祭祀を継承する為め富岡宣永の養嗣子となる。国学院大学を卒へ砥鹿神社北海道十一ヶ国総鎮守官幣大社札幌神社勅祭官幣大社鹿島神宮等に各々宮司として奉仕、砥鹿神社にては山林経営施業案を立て、神社百年の大計を樹立した。三河一国の青年指導教化、札幌神社にては境内整備社務所、参集殿、斉館の新築、道会初日全道会議員の神社参拝道政奉告の新例を開く。鹿島神宮に於ては昭和度の大造営を完成、氏子、神社により胸像建立さる。昭和廿四年父祖伝奉の富岡八幡宮々司として奉仕、戦災により焼失したる八幡宮の御社殿再建、その間茨城県神社庁設立、初代庁長、神社本庁総長、国学院大学理事、同大学評議委員会議長、同大学院友会々長、神社本庁顧問、長老の称号を受け、北白川総裁様より鳩杖の下賜にお言葉を賜わる。氏神、産土神の神学的研究により哲学博士、文学博士の学位を贈らる。 昭和四十八年八月

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