古市公威(和光市)

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  1. 林 久治 -

    銅像探索記⇒Microsoft Word – RW-37 (fc2.com)
    本像は東大の古市像のミニチュア像である。
    理研2代所長・古市公威先生の略歴
    古市 公威(ふるいち こうい、1854.9.4-1934.1.28)先生は、姫路藩士・古市孝の長男として江戸の藩屋敷で生まれた。1869 年に旧幕府の開成所を復興し開校した開成学校に入学し、1870 年には姫路藩の貢進生として大学南校(旧開成学校)へ進学した。1873 年には開成学校に設置された諸芸学科へ進学。1875 年、諸芸学修行のため文部省最初の留学生として欧米諸国へ派遣されることとなった。1879 年 8 月、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)を卒業して工学士の学位を受領、同年にはパリ大学理学部に入学、1880 年には同校を卒業して理学士の学位を受領している。1880 年に帰国して、古市は内務省土木局のトップとして全国の河川治水、港湾の修築のみならず、日本近代土木行政の骨格を作るとともに、大学教官の二足の草鞋をはいた。帝国大学工科大学初代学長(1886 年、32 才)、東京仏学校(法政大学の前身の一つ)初代校長、土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理化学研究所第 2 代所長(1917-1921)、東京帝国大学名誉教授として日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った。彼の代表的な功績として、横浜港の建設がある。1905 年、横浜港に日本最初の大般の繋船壁が完成したが、その設計を担当したのは古市だった。工学博士。男爵。
    本像は池田康之助氏の寄贈
    寄贈者の略歴:池田庸之助氏(1917.7.31-2009.4.5)は、理研におけるストレプトマイシン国産化のリーダー。ストレプトマイシンは、1947 年当時、米国ですでに工業化されており、GHQ が日本の結核対策として国産化を推進していた。仁科、藪田の両研究室は、共同研究を開始してまもなく、1948 年11 月には 200 リットルのタンクでの工業化試験に入る準備を整え、東大の朝井勇宣研究室の生産菌を利用した。本事業のリーダーは藪田研究室の池田庸之助研究員で、池田先生は後に東大応用微生物研究所教授になられ、理研主任研究員を兼任(1964-1972)されていた。

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