正力松太郎

1 comment

  1. 林 久治 -

    銅像探索記⇒「雅子の庭園」(林久治欄の「第78 回 岩手県奥州市の後藤新平と正力松太郎の銅像」)
    正力松太郎(18854.11-1969.10.9)は富山県出身。東大卒。警視庁に入り警務部長などを歴任。1924年1月虎の門事件の責任で懲戒免職。翌月、経営難の読売新聞社を買収して社長に就任。正力は、警視庁官房主事時代、内務大臣であった後藤新平を嫌って地方転出を希望したときがあるが、当時の警視総監湯浅倉平から警務部長として警視庁に残るよう説得され、大正12 年10 月27 日警務部長に転じた。しかしながら、後藤新平は、正力を直接呼びつけては政治上の用件をいいつけるなど自由に使った。正力は、最初は大嫌いだった新平も直接使われてみると、その雄大な着想や計画に触れるに至り、次第に敬服するようになった。そして、虎ノ門事件で免職となった正力に対し、新平から生活費の援助の申し出を受けて感激した。この申し出は辞退したが、新平は自分が相馬事件で収監された時に、母親が訓戒和歌集の歌を家人に読み聞かせて新平の苦労を共感した話しをし、その歌集を正力に与えた。この日から正力は心から新平を信頼できる先輩と信服うるようになった。その後、正力は読売新聞社を経営するため、その資金について新平に相談した。新平は1、2分考えただけで、「新聞経営は難しいと聞いているから、失敗したらきれいに捨てて未練は残すなよ。金は返す必要ないからな。」と言って10万円を正力に貸した。このとき、正力は、新平に親の愛を感じたと言われている。正力は、新平の死後になって、その金は新平が住んでいた麻布の土地を担保に無理な借金をして作ったものであることがわかり、感激し、号泣した。そして、新平の郷里の水沢に公会堂を作ってほしいと、建設費15万円に維持費5万円を足して20万円の金を当時の水沢町に寄附した。この施設は、昭和16 年11 月に竣工し、その名称は、新平の甥の椎名悦三郎が「公民館」と名づけた。これが公民館のという名称の日本第1号となり、公民館発祥の地と呼ばれるゆえんとなっている。

Leave Comment