佐々木佐五平

場所:奥州市 奥州市まちなか交流館

享保年間(徳川吉宗・大岡越前の時代)に、水沢で三度の大火災があった。
城主の命令により江戸に出向いて江戸「いろは四十八組」の町火消制度を習い水沢に民間消防隊を創始した。

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  1. 林 久治 -

    銅像探索記⇒第79 回 岩手県奥州市の木村榮と佐々木佐五平の銅像
    佐々木佐五平の座像の銘文:水沢火消の祖佐々木佐五平翁
    水沢は、古来から数多くの大火に見舞われている。近世に入ってからも元禄・享保・文政・天保・安政年間に六度の大火がある。火消し組の組織については、享保二十年(1735)二月二十日に柳町から出火し、167戸が焼失したことが、伊達資料によって明らかにされているが、その大火を機に水沢における町火消しの祖といわれる「佐々木佐五平翁」が、江戸の火消し組を学び、「臥煙組」を組織したとされている。
    平成二十四年三月 心字の街創造実行委員会
    ウィキペディア「伊達 村景」によれば、伊達 村景(だて むらかげ:1690-1753)は、江戸時代中期の武士。陸奥国仙台藩一門第三席・水沢伊達家6 代(留守氏23 代)当主。村景の当主在任期間は57 年と水沢伊達家歴代で最も長く、1714 年の水沢城の大規模修繕など数々の事業に取り組んだが、水沢城下では享保年間に限っても、享保3 年(1718 年)2 月30 日、享保18 年(1733 年)3 月18 日、享保20 年(1735 年)2 月22 日の3 度にわたって大規模な火災が発生し、特に享保20 年の火災では168 戸を焼失した。これらの火災が発生するたびに、水沢城下の復興費用調達のため仙台本藩蔵元の大文字屋から多額の借金を余儀なくされ、苦しい領地経営を強いられた。なお、借金の返済は孫の村儀の代までかかっている。村景は火事対策の一環として家臣・佐々木佐五平に命じて民間の消防組「臥煙組」を組織させたが、その記念行事が日高火防祭の起源であるともいわれる。

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