瑩山禅師、峨山禅師、明峰禅師(鶴見区)

設置場所:横浜市鶴見区鶴見2-1-1 総持寺向唐門前
原型作者:喜多俊勝
鋳造:黒谷美術株式会社
設置時期:2019年10月
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

相承像:瑩山禅師(中央、1268-1325)、峨山禅師(右、1275-1366)、明峰禅師(左、1277-1350)。
本像の設置経緯は、銘文に以下の記載あり。
「相承 大いなる足音が聞こえますか」は御両尊大遠忌報恩法会(奉修期間 平成二十六年より令和六年)の掲げる基本理念であります。それは法の相続すなわち師匠から弟子へ正しい仏の教えを伝え、途絶えることなく次の弟子達へ伝えてゆくことです。釈尊から摩訶迦葉尊者に伝わった一滴の水とも称すべき正伝の仏法は、インド、中国と嫡々相承して大本山永平寺開祖道元禅師に到り、當本山開祖瑩山禅師から全国へ脈々と流れ出でて多くの寺院が建立され、今日の蕩々たる大河となりました。まさに相承は先人の偉業と申せましょうし、今を生きる私たちの責務であります。
瑩山禅師(中央)には「四門人六兄弟」と称される弟子たちがおりましたが中でも、本山二祖 峨山禅師(右)及び明峰禅師(左)の両禅師は瑩山禅師門下の二大神足でありました。瑩山禅師のもとで、峨山禅師は「両箇の月」で心地を開明され、明峰禅師は「皮膚脱落の話」で本分に安住されました。また瑩山禅師は両者を「峨山は麒麟の雲に点ずるに似たり、明峰は老馬の路を行くが如く」と賞しました。これは、傑出した禅機を振るう峨山禅師と、修行歴が長く熟練した明峰禅師を見事にとらえたお言葉です。
私たちは瑩山禅師のみ教えをいただいて精進を重ね、確実に次の世代へ響かせていきたいものです。また一人でも多くの人が瑩山禅師のみ教えに接して日々の生活に生かし、こころ豊かな社会を築く原動力となることを願って止みません。令和六年(2024)に本山開祖瑩山禅師七百回大遠忌に当たり、謹んで瑩山紹瑾禅師とその法を相承されてこられた祖師方の像を建立する次第です。
令和元年(2019)十月吉辰 大本山総持寺 独住第二十五世 江川辰三 識
願主 曹洞宗大本山総持寺 大本山総持寺顧問会 大本山総持寺全国嶽山会 御両尊報恩法会大遠忌局
瑩山禅師:瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん、諡号:佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師。文永5年10月8日(1268年11月21日) – 正中2年8月15日(1325年9月29日))は、日本の鎌倉時代の曹洞宗の僧侶。瑩山派(總持寺派)の派祖で、教団では第四祖とする。一般には瑩山禅師と呼ばれ、教団内では日本曹洞宗開祖で祖の道元を高祖承陽大師、瑩山を太祖常済大師とする。越前多禰(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生氏の長男として生まれる。幼名は行生(ぎょうしょう)。母親の熱心な帆山観音信仰の影響を受け、幼少時から信仰心に目覚める。道元の建仁寺時代からの熱心な信者で母方の祖母である明智優婆夷の影響から、8歳で永平寺に入門。
峨山禅師:峨山韶碩(がさん・ょうせき、建治元年(1275年)- 正平21年/貞治5年10月20日(1366年11月23日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧。能登国の出身。總持寺第2世。大現宗猷國師。能登国羽咋郡瓜生田(現在の石川県河北郡津幡町字瓜生)に生まれた。16歳の時比叡山で出家し、円宗に師事して天台教学を学んだ。一説には白山修験道の行者であったともいう。永仁5年(1297年)、上洛途中の瑩山紹瑾に出会う。
明峰禅師:号は明峰、名は素哲。瑩山紹瑾禅師の法嗣であり、後に永光寺を受け継いで、瑩山禅師の遺跡を守る僧録となった。俗姓:富樫氏、生没年:建治3年(1277)~観応元年(1350)、出身地:加賀、または能登の人。比叡山で出家して、落髪受具し、天台宗の教学を学んでいたが、後に衣を改めて建仁寺に掛搭して禅宗を学んだ。さらに、大乗寺に行き、瑩山禅師に就いて侍者となった。付随すること8年にして開悟した。それ以降は、諸方を遍参していたが、中でも臨済宗法燈派の恭翁運良は、大いに賞したという。その後、再び永光寺の瑩山禅師の元に帰ると、元亨3年(1323)6月に入室し、その法を嗣ぎ、正中2年(1325)には、瑩山禅師の後を嗣いで永光寺に住した。

相承像の設置場所:横浜市鶴見区鶴見2-1-1 総持寺向唐門前

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