兼松房治郎(国立市)

設置場所:東京都国立市中2-1 一橋大学兼松講堂2階ロビー
制作者:堀進二(1890-1978)
設置時期:1927年10月
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:兼松房治郎翁(1845年6月25日-1913年2月6日)は、大坂・江之子島で父・廣間彌兵衛と母・八重のもとに生まれる。父が行方不明となり、12歳で母親を扶養するため伏見西浜の醤油、味噌などを商う「葭屋」に丁稚奉公するが翌年、大坂の縁戚で新天満町丹波屋延蔵方に住まうも続かず、しばらくして京都に赴き、東洞院万壽寺の鮒屋庄兵衛の乾物問屋に住み込みとなった。ここの主人の残酷な虐待に耐え忍んだ。
紆余曲折の末、房治郎は1873年に28歳で三井組銀行部(現・三井住友銀行)大阪分店に入店。丁稚同様のスタートであったが、誠実かつ積極的な努力が実を結び、当時の銀行が扱っていなかった民間資金の取り扱いも導入し、多くの成果と信用を勝ち取っていった。その後三井を退社し、1884年、大阪を中心とした海運業界の活性化を図るべく大阪商船(現・商船三井)の創設に参加し取締役となる。1887年、大阪日報を買収し、翌年に大阪毎日新聞と改称。今日の毎日新聞の基礎を作る。
房治郎は「国力の振興は貿易によるしかなく、貿易の商権はわれわれ日本人の手中に握らねばならない」という理想と希望に燃え、その目は畜産や鉱山などの宝庫であり世界一の羊毛産出国である豪州に向けられた。1887年、初めて豪州シドニーを訪れ現地を視察した房治郎は、「わが将来の活動の舞台はここにあり、国家の福利増殖の道も合わせて得られよう」と決意。そして1889年、ついに44歳にして「豪州貿易兼松房治郎商店」(現・兼松)を神戸に創業。「日豪貿易のパイオニア」といわれる。
一橋大学兼松講堂:本講堂は、伊東忠太の設計により1927年(昭和2年)8月に創建されたロマネスク様式の建物です。本講堂は、日濠館(現・海岸ビルヂング)及び神戸大学兼松記念館と共に、兼松房治郎翁の遺訓で建造され、現在これらの建物は登録有形文化財となっている。
一橋大学の銅像地図:兼松房治郎翁像はⒽ地点に設置

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