石垣隈太郎(港区)

設置場所:東京都港区赤坂1-9-13 三会堂ビル1階ロビ-
制作者:朝倉文夫
設置年:1927年
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:石垣隈太郎翁(1859-1928)は、 伊勢の国大社村(三重県)生まれ、14歳で三菱会社(海運)の給仕から貨物輸出掛となり、西南戦争時には御用船に乗船、軍需品の輸送を担当、函館にて三菱から独立して食料品の販売や漁業経営、ラムネの製造にも着手する。 帆船、汽船を10隻買入れ、海獣狩猟、アラスカからの魚の買い付けを経て、ロシア海域でのサケ・マス漁業に成功すると、サルベージや海運も営み、巨万の富を得、水産王と称される。輸出食料品会社、東洋製罐ほかの会社設立に関わり、重役、社長等歴任する。晩年は巨財を大日本水産会に寄付して石垣記念財団を設立せしめ、三会堂ビルの再建にあたらせた。函館の区会議員、商工会議員など務め、各種事業に私費を投じるなど、地方公事、産業振興に尽力した。
本像横には、石垣翁と三会堂ビルとの関係を記載した掲示板がある。それには、以下のように記載されている。
三会堂ビルと石垣隈太郎翁
 明治十四年から明治四十五年にかけて、明治政府の殖産興業の方針の下、農林水産業の振興発展を目的として相次いで創設された大日本農会、大日本山林会、大日本水産会の「三会」は、明治十六年、京橋区木挽町に合同の事務所を設けました。
 明治二十四年に至り、三会は、当地、赤坂溜池に移転し、合同の会堂を設け、明治三十一年にこの会堂を「三会堂」と命名しました。
 その後、明治三十七年には、新たな会堂を建設しましたが、大正十二年の関東大震災により同会堂は灰燼に帰し、関係者一同その再建について途方に暮れるところとまりました。
 大正十四年に至り、我が国北洋漁業の先覚者「石垣隈太郎」翁から当時の金額にして百万円相当の私財を、農林水産業をはじめとする産業の発展のために役立ててほしいとの申し出があり、この寄附により、大正十五年「財団法人石垣産業奨励会」が設立され、昭和二年、この地に当時としては珍しい鉄筋コンクリート六階建ての最新式ビルディング「三会堂ビル」が誕生しました。
 その後、第二次大戦後の米軍によるビル接収解除を機に、昭和三十九年に財団法人石垣産業奨励会が財団法人農林水産奨励会に改組され、昭和四十二年に現在のビルが竣工し、今日に至っております。
 なお、石垣隈太郎翁の名は、当ビル九階に「石垣記念ホール」として残されています。
〈像〉彫刻家「朝倉文夫」作
本像が設置されている三会堂ビル(東京都港区赤坂1-9-13)は再開発のため近々取壊しの予定です。そのため、本像の今後の行方は不明です。

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