守屋善兵衛(目黒区)

設置場所:東京都目黒区五本木 2-20-15 目黒区立守屋図書館前
制作者:横江嘉純(よしずみ、1887- 1962)、富山県出身、東京美術学校卒業。
制作時期:1940 年春
画像提供:たぐってぃさん
林久治⇒銅像探索記/f

画像提供:林久治
設置経緯:守屋善兵衛氏(1866年1月25日-1930年12月10日)は岡山県小田郡大井村(現在の笠岡市)東大戸で出生。幼名・久太、本名・智行、号・亦堂、如郷。15 歳で上京、東京外国語学校等でドイツ語を学ぶ。のちに制度取調局御用掛・文部属を歴任。1894 年「日本衛生新報」を発刊する。この頃後藤新平の知遇を得て、台湾総督府衛生顧問付書記に就任。1898 年台湾新報と台湾日報を合同して台湾日日新報を経営。1903 年に欧米を視察。その後は満州日日新聞、満州の教育貯蓄銀行、東京動産火災保険などの重役を務めた。1940 年目黒区は、守屋氏遺族から宅地と住居の寄贈を受け、守屋記念館を設置した。その後 1952 年守屋図書館として開館した。(参考文献:「守屋善兵衛追悼禄」守屋善兵衛追悼録編纂事務所、1936 年、「岡山人名事典」日本文教出版株式会社、1978 年、「人名辞典「満州」に渡った一万人」晧星社、2012 年)
守屋善兵衛君胸像記(昭和十六年六月)
守屋善兵衛君、小宇は久太、諱は智行、號は亦堂又は如郷、備中の国小田郡東大戸村の人。其系、物部大連より出す。元和中、守屋官兵衛、備中、八田の郷士為り。七世の孫を弥作と曰う。諱は好智。目埼氏と配す。是、君の考、君の妣為り。以って慶應二年一月二十五日生、明治九年祖父の名を襲ぎ、善兵衛と称す。是年郷黌を出て、明志学舎に入り、漢学を専攻す。十三年、醫を以って身を立てんと欲し、東京に来遊し、外国語学校、及び獨逸協会学校に学ぶ。十六年欧亜学館を剏め、明年太政官を受け、獨書翻訳の尋を命ぜられ、諸官庁の嘱託と為り、訳出する独書数十部なり。此の間衛生新聞を刊行し、又、大日本衛生会に力を效す。其の常務員と為る。二十六年内務省に出仕し、幾亡して陸軍省に転じ、似島検疫所の設也、所長は児島源太郎、事務官長は後藤新平の二公なり。日夜精励し、効果大いに揚ぐ。而して立案の骨子は皆、君の譯出に係る焉。三十一年児島公は臺湾総督に任じられ、後藤公は民生長官と為る。君其の慫慂を受け、臺湾日日新報を創め、其の社長と為る。経営に拮据し、大いに臺湾統治に資す。居ること十餘年。欧米を漫遊し、其の政・教を視察す。得る所、鮮からず。四十四年南満州鉄道株式會社嘱を以って、満州日日新聞社長と為る。大正二年組織を改め、以って社礎を鞏む。五年職を辞し帰京す。君又、産業の振興に覃思し、推されて諸會社の社長・取締役と為るもの数矣。十二年五月、一洋館を新築す。此の地に於る四辺皆田園にして、加うるに、道路狭隘なるを以って、交通甚だ不便なり。君乃、私有地を官に献じ率先垂範、以って其の開発に努む。昭和五年十二月十日、疾に獲り、以って没す。享年六十有五。法諡は「智行院文光拓績亦堂居士」と曰う。君稟性謹厚、識趣明敏、尤も友誼に篤く、提撕を好み、後進・後進、頼り以って名を成す者、頗る多し。其れ事を処するに真摯、死に至るも変えず。常に以って公益を弘め、世務を開くを己の任と為す。其の功、豈没すべけん耶、夫人は須永氏、下野の佐野の人なり。其の兄元、君を以って志士と称す。夫人、天資、貞淑、内助の功多し。去年紀元二千六百年に丁り、官其の式典を挙ぐ。夫人、感ずる所有り、嗣子、時郎君與謀り、邸宅を挙げて目黒区に贈り、以って君の遺志を顕す。因って区会の議決を経て、之を受け、名を守屋記念館と曰う。広く公用に供し、今、特に其の胸像を製し、之を庭園に立て、併せて行履の梗概を靱し、以って後人に諗云そ。

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