与謝野晶子(堺市)

設置場所:大阪府堺市南海本線堺駅 西口広場
寄贈:堺陵東ライオンズクラブ(結成25周年記念)
制作者:玉野勢三(1954年大阪市に生まれる)
建立時期:1998年5月29日(生誕120周年記念)
画像提供:まるこさん
林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:与謝野晶子(1878年12月7日-1942年5月29日、旧姓は鳳(ほう))は、現在の堺市堺区甲斐町にあった和菓子商「駿河屋」の三女として生まれました。家業を手伝いながら文学会に入会するなど多感な少女時代を堺で過ごします。22歳で上京し、歌の師である与謝野寛(鉄幹)と結婚して12人もの子どもの母となりました。代表作には、歌集「みだれ髪」や詩「君死にたまふことなかれ」があります。歌人として有名ですが、その活動は詩歌にとどまらず「源氏物語」の現代語訳や社会問題、教育問題にかかわる評論など、その表現世界の幅を広げてきました。特に評論文は、現代にも通じる普遍的なメッセージを発信し続けています。1942年に63歳の生涯を終えます。
本像台座背面の刻文(画像提供:林久治)
本像台座側面の晶子略年譜(画像提供:林久治)
1878年 12月7日、当時堺県堺区甲斐町四十六番屋敷に菓子省商駿河屋二代目鳳宗七の三女として誕生。戸籍名は志よう。
1892年 堺女学校(現大阪府立泉陽高等学校)卒業。
1901年 6月、上京。8月、歌集「みだれ髪」刊行。9月、鉄幹と結婚生活に入る。
1904年 2月、日露戦争勃発。9月、「明星」に長詩「君死にたまふこと勿れ」を発表。
1906年 1月、歌集「舞姫」に、この歌碑のうた「ふるさとの潮の遠音のわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲」をおさめる。
1912年 5月、鉄幹の後を追って、シベリア鉄道経由でパリへ。10月、帰国。帰国後さらに詩人、評論家、エッセイスト、教育者、古典研究家としてもさまざまな文学活動を展開する一方、当時の女性の地位向上のためにつくす。
1942年 5月29日、自宅で死亡。法名は「白桜院鳳翔晶燿大姉」
1942年 遺歌集「白桜集」が平野万里編で出版される。

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