中江藤樹(大洲市)

場所:大洲市 大洲城
画像提供:sakkyさん

「近江聖人」と呼ばれる人物

1608年(慶長13年)、高島郡小川村で農業を営む中江吉次の長男として誕生。
9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。
1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。
1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。

1634年(寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。
脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。
郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)で私塾を開く。
これが藤樹書院である。
1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。

藤樹が残した名言をいくつかご紹介

「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」
「それ学問は心の汚れを清め、身の行ないを良くするを以て本実とす」 「にせの学問は、博学のほまれを専らとし、まされる人をねたみ、おのれが名をたかくせんとのみ、高満の心をまなことし、孝行にも忠節にも心がけず、只ひたすら記誦詞章の芸ばかりをつとむる故に、おほくするほど心だて行儀あしくなれり」
「君子・小人の分、専ら心上にあり、意必固我(勝手気まま、強引、執着)なければ即君子なり。意必固我あれば即小人なり」
「悔は凶より吉に赴く道なり」
「家をおこすも子孫なり、家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしへずして、子孫の繁昌をもとむるは、あしなくて行くことをねがふにひとし」

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