田辺朔郎(左京区)

設置場所:京都市左京区南禅寺福地町 蹴上疎水公園
制作者:江里敏明(1945- )
制作時期:1982年11月15日
建立者:京都華頂ライオンズクラブ(結成10周年記念)
画像提供:林久治さん⇒銅像探索記/f


設置経緯:田辺朔郎(1861~1944)は琵琶湖疏水工事を推進し,その後も京都市・京都府の土木事業にたずさわった。本像横の田辺博士顕彰碑は博士の還暦を記念しその功績をたたえるために建てられた。最初の建立地は賀茂川と高野川の合流地点の出町剣先であったが,昭和16年に現地へ移された。
京都市電気局編「琵琶湖疏水及水力使用事業」(1940年 同局刊)によれば、顕彰碑は1923年7月19日除幕。
碑文は山本竟山書。礎石の中に石の唐櫃を設け,疏水工事その他の資料を銅管内に封入して収めた。本碑の北隣には1982年に田辺朔郎の銅像が建立された。

本像横の碑文には、以下の記載がある。
田辺朔郎は文久元年(一八六一)江戸に生れる 明治十五年(一八八二)工部大学校学生であった田辺は京都の衰微を回復するため琵琶湖疏水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に会い請われて翌年京都府に着任し財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け,明治十八年(一八八五)起工後は設計,施工の総責任者となる。当時はほとんど機械,資材とてなく,いわば人力のみに頼る長さ二四三六米の長等山トンネルの工事は困難を極めたが,卓抜な技術と強い信念,不屈の精神力によりこれを克服した。また優れた先見性により世界で二番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し,産業動力源とするとともに,わが国初の路面電車を京都に走らせた。明治二十三年(一八九〇)四月,晴れの通水式を迎えた田辺朔郎は二十八才であった。
 わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に,近代都市京都の基礎をつくった恩人田辺朔郎の像を建てここに顕彰する。   京都市

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