堅田源兵衛と蓮如(大津市)

場所:大津市 堅田 光徳寺
画像提供:びがろうさん

「堅田源兵衛父子殉教之像」と呼ばれている銅像です。

光徳寺は真宗大谷派の寺院で創建は1361年(康安元年)覚忍により開創された寺。
(光徳寺に伝わる話)
1480年、蓮如は山科本願寺を創建すると、宗祖親鸞の木像を預ていた三井寺に木像を山科本願寺に移したいと願い出るが、
「人の首を二つ差し出すなら木像を返そう」と三井寺から無理難題を言われてしまう。
途方に暮れていた蓮如であったが、その話を聞いた堅田の漁師・源兵衛は、父親を説得して、自分の首をはねてもらう
源兵衛の父親は、息子の首を三井寺に持って行き、自分の首もはねてくれと言った。
驚いた三井寺は親鸞の木像を返し、蓮如は「真宗復興の祖は源兵衛である」と涙したという。
その後源兵衛の父親は巡礼の旅に出て、旅先の広島県福山市で亡くなっている。源兵衛の首は本堅田の光徳寺に祀られている。

なぜ堅田の漁師が蓮如のために命を捧げたのか?
蓮如が本願寺8世であった頃、堅田にある本福寺ここにも蓮如像あり)が臨済宗から浄土真宗に改宗し、本福寺の住職が蓮如から信任を受けていたそうです。そのため堅田の民衆も蓮如を敬っていたものと思われます。
その後、蓮如は、比叡山延暦寺と対立し大谷本願寺の焼き討ちなど迫害を受けることになります(寛正法難1465年)
 大津に逃れた蓮如は数年堅田に滞在し、堅田の民衆も蓮如を迎え入れます。
しかし堅田の領主であった延暦寺は「仏敵」と見做した蓮如を匿ったとして堅田を焼き討ちにしてしまいます(堅田大責)。
※その後1468年、蓮如は延暦寺と和議。
領主の延暦寺と敵対してまで蓮如を匿うほど堅田の民衆は蓮如との繋がりがあったのですね。

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