大河内正敏(和光市)

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  1. 林 久治 -

    銅像探索記⇒雅子の庭園(林久治欄:37回:理研の銅像)
    「場所:和光市 理化学研究所・理研ギャラリー」と記載されているが、正しくは「和光市 理化学研究所・大河内記念ホール」である。
    大河内先生略歴
    大河内正敏(おおこうち まさとし、1879.12.6-1952.8.29)は、物理学者であり実業家である。旧上総大多喜藩主で、子爵大河内正質の長男として東京浜松町に生まれた。のち旧三河吉田藩の子爵大河内家の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘を妻に迎える。学習院初等科時代は、大正天皇の御学友であった。第一高等中学校を経て、東京帝国大学工学部造兵学科に入学。1903 年、東京帝大を首席卒業(正確には、「恩賜の銀時計」を受ける)、講師となる。その後私費でヨーロッパに留学。 その後の、大河内先生の主な経歴は次の通りである。
    1911-1925:東京帝国大学工学部造兵学科・教授(退職後は理研に専念)
    1915-1946:貴族院議員(ただし、中断の時期がある。)
    1918:原内閣の海軍省政務次官
    1921-1946:理化学研究所・第3代所長
    1927-1946:理化学興業・会長
    1934-1945:東京物理学校・第4代校長
    1945-1946:A級戦犯容疑で巣鴨拘置所の収監
    1946-1951:公職追放
    大河内所長は、理研の主任研究員に自由をもたせる研究室制度を導入するととも
    に、研究成果の事業化を進め、理研を国際的な研究機関にまで育て上げた。

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