近藤勇(調布市)

設置場所:東京都調布市上石原1-28-3 西光寺山門前
設置時期:2001年10月8日 近藤勇の没後130年を記念
設置者:近藤勇座像建立委員会
制作者:不明
画像提供:ヒロ団長、林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:近藤勇(1834.1.5- 1868.5.17)は西光寺近くの武蔵国多磨郡上石原村(現・調布市野水)に、豪農・宮川久次郎の三男として生まれる。
幼名は勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、1848年天然理心流近藤周助に入門、翌年近藤家の養子となり近藤勇を名乗る。1861年天然理心流宗家四代目を襲名。
1863年幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。
1868年1月の鳥羽伏見の戦いに参加、幕軍敗北により幕艦富士山丸で江戸に帰還。同年3月近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原村では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遥か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。
天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾った瞬間である。
戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ、1868年4月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として新政府軍に出頭、同月25日江戸板橋で刑死、時に僅か35歳波瀾万丈の生涯を閉じた。会津藩主、松平容保は「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号を贈りその功績を称えている。


調布市「近藤勇と新選組の会」は、没後130年を記念し、近藤勇座像建立委員会(代表・圡方貢)を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。

1 comment

  1. 林 久治 -

    近藤勇座像
    設置場所:東京都調布市上石原 1-28-3 西光寺山門前
    設置時期:2001 年 10 月 8 日 近藤勇の没後 130 年を記念
    設置者:近藤勇座像建立委員会
    制作者:不明
    林久治の銅像探索記:第160回近藤勇像
    URL:http://masaniwa.web.fc2.com/RW-160.pdf
    設置経緯:近藤勇(1834.1.5- 1868.5.17)は西光寺近くの武蔵国多磨郡上石原村(現・調布市野水)に、豪農・宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、1848 年天然理心流近藤周助に入門、翌年近藤家の養子となり近藤勇を名乗る。1861 年天然理心流宗家四代目を襲名。1863 年幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。1868 年 1 月の鳥羽伏見の戦いに参加、幕軍敗北により幕艦富士山丸で江戸に帰還。同年 3月近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原村では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遥か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾った瞬間である。戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ、1868 年 4 月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として新政府軍に出頭、同月 25 日(旧暦)江戸板橋で刑死、時に僅か 35 歳波瀾万丈の生涯を閉じた。会津藩主、松平容保は「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号を贈りその功績を称えている。 調布市「近藤勇と新選組の会」は、没後 130 年を記念し、近藤勇座像建立委員会(代表・圡方貢)を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。

Leave Comment