設置場所:千葉県四街道市四街道1-9-3 視覚障害者総合支援センターちば玄関前
制作者:木村 珪二(1904—1981) 東京教育大学教授
製作時期:1965年
林久治⇒銅像探索記/f


設置経緯:石川倉次(いしかわ・くらじ、1859年2月28日 – 1944年12月23日[3])先生は、浜松藩士の長男として、静岡県浜松市に生まれました。父が仕えた浜松藩主が1868年、上総国へ国替えとなったことから倉次も父や家族と一緒に千葉県市原市鶴舞に移住しました。1879年に千葉師範学校を卒業後、現在の千葉市や茂原市などの小学校に勤めました。1886年、このころ普通の教師であった倉次は、国語やカナ文字の指導に関心を持ち国語研究のために『かなの会』に入ったのですが、小西信八を知っておどろきます。「私はめくらやおしの子供たちを教えています。あなたも盲唖学校の教師になりませんか」と信八に言われても、返答ができませんでした。なぜなら盲唖学校の存在をその時初めて知ったからです。27歳の倉次は小西信八にすすめられて東京訓盲唖院の教師に転進します。外国では点字というものを使って、盲人も本を読んでいるそうだと聞いて、倉次はおどろきます。1888年、フランス人のルイ・ブライユの点字を参考に、日本語点字を考案する仕事に熱中していきました。妻が隣室で出産したのも知らず、生まれた子供の名前に点字を意味する「ポイント」や「ポツ」と本気でつけようとするぐらい夢中だったそうです。同僚や生徒の協力も得て、ようやく点字の原型が完成しました。これで目の不自由な人も本を読めるようになりました。1890年からは盲人教育にも採用されました。倉次の考案した日本点字は、1903年のパリ万博に出品され、多くの賞賛をあびました。今でこそ、障がい者は健常者と等しく教育を受ける権利をもっていますが、当時は差別されることもあったそうです。1909年、文部省は石川倉次の『日本訓盲展示説明』を出版し、これによって日本点字の決定がなされました。倉次は、目の不自由な人たちの暗闇の世界に明かりをともした偉人といえる人物で、「日本点字の父」といわれている。
