By ヒロ団長2020年11月23日Category: 11.埼玉県の銅像, 埼玉_西部Tags: 外人, 軍人 設置場所:埼玉県所沢市並木1-13 所沢航空記念公園制作者:水野朗(きよし、1886-1965)は埼玉県出身で、金沢の水野源六家の養子嗣子。設置時期:1928年(戦時供出)胸像再建時期:1982年10月プレート再建除幕式:2019年4月7日(フランス航空教育団来日100周年記念)画像提供:ヒロ団長林久治⇒銅像探索記/f 画像提供:林久治設置経緯:ジャック・ポール・フォール砲兵大佐(Jacques-Paul Faure、1869.11.14-1924.8.24、帰国後に少将に昇進)は、フランスの軍人。日本陸軍は航空機導入後、独自に運用・飛行技術の習得に努めてきましたが、第1次世界大戦の欧州戦域における急速な航空近代化を見て、各分野の最新理論や技術の習得が不可欠との結論に達しました。当時、世界屈指の航空先進国と言われていたフランスから、最新の多様な機種を購入し、同時に教育団を招聘しました。その「フランス航空教育団」の団長がフォール大佐でした。彼が率いる41名の先遣隊は1919年1月12日に来日(海路、長崎に上陸)し、8日後には所沢航空隊を訪問しています。教育団は、いくつかのグループに分かれて日本各地の航空隊に派遣され、それぞれの地で発展途上の日本陸軍航空を担う若い人材の教育に尽力しました。欧州の激烈な航空戦を経験したフランス軍人たちの指導は、同年9月中旬まで行われましたが、その影響は単に飛行技術や運用法の習得の向上だけに留まらず、組織化や航空機開発まで多岐にわたり、近代化に大きな貢献をしました。 画像提供:林久治フォール大佐胸像 日本にとって航空の黎明期であった大正7年(1918)、陸軍の航空本部長であった井上幾太郎大将は、先進国であったフランスに我が国の航空技術全般の指導を要請しました。 日本からの要請を受けたフランスは、フォール大佐を団長とする技術者63名の航空教育団を大正8年(1919)1月から大正9年(1920)10月までの間、派遣してくれました。 この間、フランス航空教育団は、日本各地で陸軍の将校や技術者に学科と飛行訓練を指導しました。 フォール大佐は、44歳で砲兵連隊長として第一線で活躍しており、フランスの航空部隊の第一人者でした。また、優れた操縦者であり、教育者でもあったので航空教育団の団長として派遣されたと言われています。 日本でのフォール大佐の功績は大きく、日本の「航空の父」と呼ばれ、昭和3年(1928)4月に所沢飛行学校の校庭だったこの地に胸像が建立されました。 しかし、胸像部分と正面プレートは、第二次世界大戦中に接収され、取り外されたままになっていましたが、昭和57年(1982)10月、少年飛行会及び所沢航空資料調査収集する会等の協力を得て、石川県金沢市の水野朗氏制作の原型を基に復元し、所沢市が建立したものです。 なお、現在フォール大佐胸像正面にあるプレートは、フランス航空教育団来日100周年となる平成31年(2019)に、オリジナルの姿に復元したものとして、フランス航空宇宙工業会(GIFAS)から寄贈されたものです。 2019年3月 所沢市 所沢航空資料調査収集する会