場所:佐渡市徳和 ミニ公園
建立年月日:1996年(平成8)年3月
原型師:田中足穂
画像提供:城月さん

戦道(たたかいどう)騎馬武者の像 と題名が付いている

本間三河守高頼(ほんま みかわのかみ たかより)
戦国時代末期に佐渡国で活躍した武将。羽茂城主・本間高貞の弟(または義弟)で、赤泊城や腰細城の城主を務めた。

黒金安芸守尚信(くろがね あきのかみ なおのぶ)
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した上杉氏の家臣(武将)
案内板:
今から四百年余り前の戦国時代の末期、天正十七年(千五百八十九)六月、越後守護春日山城主上杉景勝の軍が佐渡へ攻めて来るという大事件があった。
それに先立つ数年前まで、上杉謙信は川中島で甲斐の武田信玄と戦を繰り返していた。しかし途中で急逝すると、その養子景勝と景虎の間で跡目相続の争いつまり「御館の乱」が起きた。
両軍の誘いに加勢せず、事の成り行きを傍観していた佐渡は、結局勝ち残った景勝に成敗されることとなる。
当時、河原田と羽茂は、佐渡の二大勢力だった。
前者は領内に鶴子銀山を有し、後者は西三川砂金山を支配していたので裕福だった。
沢根から上陸した上杉軍は、まず河原田城を落とし、羽茂に向かった。羽茂城主本間高貞の義弟で出城でもあった三川の腰細城主本三河守高頼は、羽茂に援軍を送るべく出立した。しかし、これをいち早く予知した上杉勢は、黒金安芸守尚信の率いる一群を川茂街道に回して、行く手を阻止した。そのためこの街道が戦場となり、後に戦道と呼ばれるようになった。
多勢に無勢、百戦錬磨の越後勢を相手にして勝てる見込みはなかった。武士の義を尊ぶ三河守は妻子に離縁状を渡し、討ちてし止まんの決意で、槍を手挟んで鞍に跨った。
その時、敵軍の中より進み出た一騎、刀を抜いた安芸守は、馬上より名乗りを上げた。これに応えて三河守が名乗ると、両軍は鐙を蹴って刃を合わせた。かくて合戦の火ぶたは切って落とされた。時に六月十五日巳の刻。空は日本晴れだったという。
向かって右側、刀をかざしている方が黒金安芸守尚信。左側、槍を手挟んだ方が本間三河守高頼。
