大妻良馬・コタカ夫妻(千代田区・大妻女子大学)

設置場所:東京都千代田区三番町12 大妻女子大学博物館入口(図書館棟 1階)
制作者:盛岡勇夫(立体寫眞像発明者)
設置時期:不明
画像提供:飯坂陽治さん、林久治⇒銅像探索記/f

向って左:大妻良馬(1871.6.15-1929.3.17)、右:大妻コタカ(1884 .6.21-1970 .1.3)
設置経緯:大妻学院の歴史は、明治41年(1908)に大妻コタカが裁縫・手芸の私塾を開いたことに始まります。コタカは、夫・良馬とともに私財をなげうち、学生の教育に心血を注ぎました。その後、関東大震災、良馬の死、東京大空襲、コタカの教職追放など苦難の時期を乗り越え、現在の大妻学院は学生数1万人超の学校法人へと大きく発展を遂げました。平成19年(2007)4月、大妻学院が建学以来収集してきたさまざまな資料を教育・研究に活用するべく、「大妻女子大学生活科学資料館」が設立されました。そして平成23年(2011)2月、生活科学資料館は東京都から博物館相当施設の指定を受け、平成24(2012)年4月には館の名称を「大妻女子大学博物館」に改め、新たなスタートを切りました。
大妻コタカ(1884 .6.21-1970 .1.3)先生略歴
 広島県世羅郡三川村久恵(甲山町→世羅町)出身。旧姓は熊田。農家の6人兄弟の末っ子として生まれる。産まれた6月が農繁期で「忙しい時に『困った児』」が訛って「コタカ」と名付けられたという。出生届も提出が遅れ11月20日にやっと籍が入った。現在、大妻学院の学校記念日は11月20日である。3歳で父に死別し気丈な母に育てられるが、14歳で母とも死別。
 1901年広島県立高等女学校卒業。小学校訓導を経て上京。叔父(父の弟の阿久澤家)宅へ寄宿させてもらい、和洋裁縫女学校に入学。卒業後、東京府の教員養成所、神奈川女子師範学校小学校教員養成所に学び、卒業後は鎌倉尋常小学校訓導となる。
 1907年宮内省技師官をしていた大妻良馬と結婚(24歳)。軍人の家庭の仕立物を縫わせてもらい自信となり、1908年夫が山階宮家勤めとなり宮家の中にある家に移ると、大妻学院の前身となる縫製・手芸の私塾「技芸教授所」の看板を掲げ開設した。当初は近所の子供を集めた10数人であったが、教え方が上手いと評判となり、加えて女子教育普及の波にも乗り生徒数が増加。1916年大妻技芸伝習所を設立。三越主催の学校展覧会に出品、婦人記者の小橋三四子に取り上げられコタカの名は広まった。
 1917年麹町に私立大妻技芸学校を開校して手芸・裁縫を教授。1919年大妻実科高等女学校に発展。後に高等技芸科、高等家政科を増設。夫の良馬も校主として経営・事務等を担当し、1923年関東大震災で校舎が焼失した際も直ちに再建に着手した。1927-1932年頃に和服の裁ち方、縫い方、手芸などを分かりやすく図で説明した本を次々と出版し、どれもベストセラーとなった。また五尺帯、半反でできる服やツーピースの着物、風呂敷を三角にした戦時袋などを考案して評判を呼ぶ。1929年夫の良馬が急性肺炎にて逝去。子宝に恵まれなかったこともあり、学校経営に情熱を燃やす。
 1937年世界教育大会が東京帝国大学で開催され、女子手工芸教育界を代表して発表。1942年大妻女子専門学校と改称し、良妻賢母教育を行なう。戦時中は、国粋主義的な婦人団体の幹部として活動し、戦意昂揚の講演などを行ったため、戦後は公職追放・教職追放令となり学校を追われた。1949年解除後は校長に復帰。同年、大妻女子大学に昇格し学長。家政学部に被服・食物・家庭理学の各科を設置。中学校から大学までの大妻学院に発展させた。
 教育方針は和装を中心に良妻賢母の養成。家事評論家としても活躍し、文部省認定の裁縫や手芸に関する教科書を手掛けた。1954年藍綬褒章受章。1962年自叙伝「ごもくめし」を刊行。1964年第1回生存者叙勲で女子教育者としては初めて勲3等宝冠章を受章した。生涯にわたり女子教育に尽し逝去。享年85歳。従4位勲2等瑞宝章追贈。
大妻良馬(1871.6.15-1929.3.17)氏略歴
 医家の大妻定馬の三男として高知県高岡郡戸波村に生れる。1891年現役志願兵として工兵第五大隊(広島)に入営。1894~1895年まで日清戦争に従軍。1897年8月試験検定により陸軍工兵監護(曹長)に任じ、1902年現役満期、後備役に編入、善行証書を授与される。1904年日露戦争のため充員召集され旅順攻囲軍に参加。翌年2月工兵少尉に任じ奉天包囲戦に参加。
 1906年退役し宮内省内匠寮に雇員として勤務し、翌年技手。1907年6月熊田コタカと結婚。1921年宮内技師(高等官六等)に任じ、ほどなく依願免官となり、大妻コタカの経営する大妻学校校主に専念。校主として、経営面では、事務の決裁、施設の企画、工事の設計監督、教育の面では、学則の改正、職員恩給制度の創設等寝食を忘れて精励。1923年関東大震災で校舎が焼失した際に直ちに再建に着手し、翌年3月には千坪の木造校舎を竣工し、学校復興の先鞭をつけた。

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