田中芳男(台東区)

設置場所:東京都台東区上野公園7-20 国立科学博物館日本館B1ラウンジ内
制作者:南島和也(飯田市出身)
寄贈者:長野県飯田市の市民有志による「田中芳男の胸像制作等を願う市民会議」
除幕式:2016年8月29日、没後 100 年記念
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:田中芳男(1838年9月27日 - 1916年6月22日)は、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏の典医を務める医師田中隆三の三男として生まれた。幕末から明治期の博物学者、動物学者、植物学者、農学者、園芸学者、物産学者、男爵。「日本の博物館の父」として知られる。博物学や分類学における翻訳語の成立に関わった。市川清流によって考案された「博物館」という和製漢語を、町田久成とともに普及させた。東京国立博物館や上野動物園の設立に携わった。パリ万博やウィーン万博での日本の出展に貢献した。殖産興業や啓蒙活動に努めた。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任した。なお、本像と同じ像が、世田谷区東京農業大学「食と農」の博物館にも設置されている。
本像の説明書には、以下の記載がある。
日本の博物館の父 田中芳男(1838-1916)
信州飯田(現長野県飯田市)出身の官僚、植物学者、博物学者。医師の父などから学問を学び、名古屋に出て尾張本草学の中心人物伊藤圭介の門人となる。伊藤の幕府出役に伴い江戸へ上京、蕃書調所物産方手伝となり、その後仏国万国博覧会(パリ万博)へ出品品を携え参加し、日本を世界へ広く紹介した。
明治政府の元では、澳国万国博覧会(ウイーン万博)や米国万国博覧会(フィラデルフィア万博)、数多くの国内博覧会や共進会に事務官や審査官として携わり、博覧会の成果である博物館の創設に貢献した。また、農林水産業の団体設立などに関与して産業育成に貢献し、近代日本の発展に多大な功績を残した。
当館は、明治10(1877)年設立の文部省の教育博物館を源流としており、文部省博物局に所属した田中は当館の設立者ともいえる人物である。平成20年に「田中芳男の胸像製作等を願う市民会議」より本像の寄贈を受け、」ここに広く彼の業績を紹介するものである。
平成28年9月吉日 国立科学博物館
設置場所:東京都台東区上野公園7-20 国立科学博物館日本館B1ラウンジ内

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