弘世助太郎(西区)

設置場所:大阪市西区江之子島2-1-54 日本生命病院1階コリドー南玄関内
制作者:北村西望
制作時期:1937年5月
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯: 弘世助太郎(ひろせ・すけたろう、1871年1月18日 – 1936年3月9日)は弘世助三郎(1843-1913)の嫡男として滋賀県彦根に生まれる。京都第三高等中学校卒業後、父助三郎(1889年大阪に日本生命会社を共に創設)の事業後継者としての素地を作るため三菱合資銀行部、日本倉庫を経て山口銀行に入り、1908年弘世助三郎の取締役退任に伴い日本生命取締役に就任した。助太郎は山口銀行の支配人・監査役をつとめ、その後関西信託や三和銀行の取締役に就任し、山口財閥とは極めて密接な関係にあった。1928年12月29日、日本生命社長に就任し、1936年に亡くなるまで、その任に当たった。日本生命は第2代社長片岡直温が1919年2月18日にその職を辞してから、社長不在時代が続いたが、弘世助太郎は専務として実質的に経営の舵取りを担っていた。この間、不況に加え関東大震災による罹災などがあり保険業界にとっては苦難の時代であったが、弘世の経営手腕で業界トップの地位を維持した。そうした難局を切り抜けたことに加え、地方の富裕層による代理店中心の営業チャネルを、日本生命が直接雇用する営業社員に切り替えたことが、その後の日本生命の更なる発展の礎を築いたとされ、「中興の祖」と呼ばれるようになった。
日本生命病院の沿革は次の通りである。1924年7月、財団法人「日本生命済生会」設立。1925年4月、健康相談所(無料診療所)開設。1931年6月、「日生病院」開院(大阪市西区新町:内科、外科、理学的診療科)。2015年10月、現在地に新病院着工。2017年12月、新病院竣工式。2018年4月、「日本生命病院」に改称し、現在地に移転
設置場所:大阪市西区江之子島2-1-54 日本生命病院1階コリドー南玄関内

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