五島慶太・昇の父子(渋谷区)

設置場所:渋谷区南平台町5-6 東急電鉄本社前
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

五島慶太會長像(1882-1959、向って左側)、五島昇會長像(1916-1989、向って右側)。
五島慶太像
制作時期:1961年
制作者:石井鶴三(1887-1973、東京府下谷区仲御徒士町生まれ、東京芸術大学教授)
設置経緯:五島慶太(1882-1959)は日本の官僚、実業家、東京急行電鉄の事実上の創業者。長野県小県郡殿戸村(現・青木村)に農業の二男として生まれる。東京高等師範学校を卒業。苦学して、1911年東京帝国大学を卒業。高等文官試験に合格し、鉄道院に入る。その頃、実業家の渋沢栄一らによって理想的な住宅地「田園都市」の開発を目的に設立された田園都市株式会社が東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入した。その住民に交通の便を提供するため、目黒駅と蒲田駅から同経営地まで鉄道を敷設するため荏原電気鉄道(後の目黒蒲田電鉄)も設立したが、素人ばかりのため経営不振に陥っていた。そこで大株主の第一生命保険社長の矢野恒太に相談したところ、阪神急行電鉄総帥の小林一三を推した。小林は名前を出さず、報酬も受け取らず、日曜日のみ、という約束で経営を引き受け、玉川、田園調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めた。しかし、目黒蒲田電鉄を立ち上げる時に小林が多忙のため、代わりに鉄道院出身であった五島を推挙。小林からは「荏原電鉄を先にやって、45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやればいい」と説得され、1922年10月から荏原電気鉄道の専務を兼務した。直前の1922年7月、荏原電気鉄道は目黒蒲田電鉄と名前を変え、1924年11月に目蒲線の全線開通を迎えた。その時期が関東大震災と重なったため、都心を焼け出された人々が沿線に移住し業績は一気に好転した。その利益で武蔵電鉄の株式過半数を買収し、名前を武蔵電鉄から東京横浜電鉄と変え、1927年8月に東横線(渋谷 – 神奈川間)を開通させた。この東横線は五島が最も精魂を傾けて建設した路線だといわれている。1944年2月11日、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任し、戦後は公職追放。1951年追放解除。

五島昇像
制作時期:1989年
制作者:富永直樹(竹中銅器)
設置経緯:五島昇(1916-1989)は日本の実業家、東京急行電鉄社長・会長、日本商工会議所会頭。五島慶太の長男として東京市神田区駿河台に生まれる。1940年、東京帝国大学経済学部卒業後、東京芝浦電気に勤務。1945年、東京急行電鉄に入社。1954年、東急社長に就任。1959年(昭和34年) – 武蔵工業大学(現・東京都市大学)理事長に就任。1960年、五島美術館開館。1964年、日本国内航空を設立。1967年、東急百貨店本店を開店。1978年、東急ハンズ渋谷店を開業。1984年、日本商工会議所会頭に就任。1987年、東京急行電鉄会長に就任。

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