内藤豊次(文京区)

設置場所:東京都文京区小石川4-6-10 エーザイ本社前庭
設置時期:1981年11月建立
制作者:田畑一作(1915-1994)は京都市生まれ。
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:内藤豊次(1889-1978)は福井県丹生郡糸生村(現・越前町)出身。1903年、武生中学校を2年で中退したが、この時点で旧制高等学校卒業程度の学力を持っていたためという。1905年、大阪の工場で奉公し、翌年神戸の貿易商ウインケル商館に勤める。勤務の傍ら、パルモア英学院(現・パルモア学院専門学校)に入学し翌年卒業。1909年から2年間近衛師団歩兵第二連隊の衛生兵となる。除隊後、薬局タムソン商会に入社。1915年、東京の田辺元三郎商店(現在の田辺三菱製薬)に入社。サロメチール(鎮痛剤)、チミツシン(鎮咳剤)、ハリバ(粒肝油)などを手がける。1941年、「日本衛材株式会社」を埼玉県児玉郡本庄町(現・本庄市)に創業する。1955年、日本衛材株式会社をエーザイ株式会社に社名変更。1966年、社長を退き、代表取締役会長に就任。1969年に内藤記念科学振興財団を設立し理事長に就任。
 人間の生命には限りあるが、事業の生命は永遠である。
この言葉は、わが医薬企業の大貢献者内藤豊次翁の遺された言葉である。翁の生涯はその自叙伝「第三人生のあゆみ」と「創業経営」の二書に述べ尽くされているが、明治二十二年越前糸生の一寒村に生まれ、八十九年に及ぶ偉大な軌跡を留められたのである。武生中学中退以後は独学の熱意に燃え、語学を習得して視野を世界に広め、明晰な頭脳と豊富な知識はやがて医薬探求の道を邁進し、まずビタミンAD剤や酵母剤を開発して保険福祉の先駆をなし、昭和十九年エーザイの創業を見るや、僅か三十年にして業界屈指の存在となる。ネオフィリン、メサフィリンにはじまり、ニベラ、ノイキノシンなど、翁の所謂医療を先導する独創的新薬が次々と創製された功は顕著である。昭和四十四年春、生命科学の研究助成を旨とした内藤記念科学振興財団が設立され、次いでくすり博物館が創設されるに至って勲三等瑞宝章の叙勲の栄に浴し、翁の遺業は正に燦然と輝く。茲に新たに鋳像を仰ぐにあたり「創業経営」の結語を誦することに意義ある事と思う。曰く
 貧弱な一町工場的小企業にすぎなかったわが社が、今日の盛業を見るとは何人も夢想だにしなかったであろう。それを想うと今の日本のエーザイから、さらに世界のエーザイへと大成することも、単なる夢ではないように考えられてならない。
   昭和五十六年十一月十一日   エーザイ株式会社

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