相良丰光(小平市)

設置場所:東京都小平市小川町1丁目590 曙光園前庭
設置時期:1982 年
制作者:盛岡勇夫(立体写真像発明者)
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:相良丰光氏(さがら・よしみつ、1927‐2008)は宮崎県出身で、中大在学中に難病のスモン病に罹りました。原因不明、伝染、奇病と言われ、社会から疎外されたスモン患者が力を合せて全国スモンの会を結成したのは昭和44年11月26日。相良氏が初代会長となり、スモン訴訟を起こしました。
相良丰光(さがら・よしみつ)年表
1927年:12月12日 宮崎県西諸県郡野尻村(現在の宮崎健小林市)に生まれる。
1960年:中央大学法学部通信教育課程入学。
1969年:中央大学法学部通信教育課程卒業。
この時、本人は検査入院先の病院でのキノホルム服薬により既に「スモン」を発症しており、大学の卒業までには九年を要した。スモン(SMON)とは、亜急性(Subacute)脊髄(Myelo)視神経(Optico)神経症(Neuropathy)の頭文字をとったもの。11月26日「全国スモンの会」結成。東京都新宿区の千日谷会堂(せんにちだにかいどう)で結成式開催。
1970年:「全国スモンの会」会長相良丰光と副会長川村佐和子は、スモンの研究に社会学的アプローチの必要性を論じ、保健社会学研究班の設置をスモン調査研究協議会(甲野礼作会長)と旧厚生省に要望。相良丰光など、美濃部亮吉都知事と会い医療費負担の軽減、神経疾患の専門病院や研究機関の設置を要望。衆議院・社会労働委員会でスモン問題討論。参考人として会長相良丰光、スモン調査研究協議会甲野会長出席。東京大学薬学部・田村善蔵氏、スモン患者の縁舌から鉄と亜鉛を検出。縁舌の正体はキノホルムと鉄の化合物と断定。第一次スモン訴訟、会長相良丰光他一名によって国、製薬会社、医師、病院を相手どり総額一億円の損害賠償請求を東京地方裁判所に提訴。
1971年:第一回口頭弁論。スモンとキノホルムの因果関係立証に被告の協力を求める。
1972年:3月13日、スモン調査研究は「スモンと診断された患者の大多数はキノホルム剤の服用によって神経障害を起こしたもの」と研究総括。その後キノホルム説が確立し、「スモン」は「薬害の原点」となる。
1974年:相良丰光は「福祉事業構想」発表。「スモンの終局の対策、救済は訴訟と自立福祉論の連続にある」と主張。
1977年:七月、「全国スモンの会」は、東京地方裁判所可部恒雄(かべ・つねお)裁判官による和解案、いわゆる「可部和解案」の受諾を決定。
1978年:十月、「曙光園」設置場所を、当地東京都小平市小川町一丁目590番地に内定。
1979年:4月11日、「社会福祉法人全国スモンの会」が認可される。
1981年:「曙光園」建設にあたり「社会福祉法人全国スモンの会」は市道「大けやき道」に面した土地を道路拡張用に購入した。江戸時代から存在したとされる「大けやき道」が、建設基準法の定める社会福祉施設への道路としての幅員の条件を満たしていなかったためである。この購入した土地はそのまま小平市に寄贈され、「大けやき道」拡幅に供された。
1982年:7月1日、「曙光園」開所する。
1984年:11月21日、米国ユニオン大学より法社会学博士号(Ph.D.of Sociology of Jurisprudence)を授与される。(学位論文名・SMON訴訟の法社会学考察…特に損害論について…)
2008年:8月21日、相良丰光逝去(享年80歳)。
相良丰光は、スモンの当事者となってから40年余り、そして社会福祉法人全国スモンの会曙光園の開所から26年の間、全国スモンの会の初代会長として、スモン訴訟を闘い、その後も障碍者福祉の発展に尽力・寄与。「信頼と団結」をモットーに、自立福祉論の実践に心血を注いだ。
2012年7月1日 曙光園開所30周年記念の日に 
社会福祉法人全国スモンの会 理事長 相良真紀子

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