庭野日敬と長沼妙佼(杉並区)

設置場所:東京都杉並区和田1-15-1 立正佼成会発祥の地修養道場庭園
設置時期:1988 年
制作者:不明
画像提供者:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:霊友会の有力な信者であった庭野鹿蔵(新井支部・副支部長)と、庭野の勧誘で共に霊友会を信仰していた長沼政は、彼らが所属していた新井支部長で法華経行者であった新井助信の勧めもあり、1938年3月5日に「大日本立正交成会」(現在の名前に改称されたのは1960年6月1日)を創立した。会の創立に当り、庭野鹿蔵は「日敬」、長沼政は「妙佼」と改名して戸籍登録した。庭野開祖会長は、霊友会を離脱した理由について、霊友会会長・小谷喜美の「法華経の講義なんか時代遅れだ、そんなことをするのは悪魔だ」という発言を聞き、法華経への理解をおろそかにして、真の供養を行えるとは到底思えないと感じたからだとしている。庭野日敬開祖(当時・会長)と長沼妙佼脇祖(当時・副会長)の姓名判断・霊能指導によって、「貧病争」の苦しみから救い、仏道精進に導くというスタンスで布教活動を行っていた。当時、第二次世界大戦の影響で多くの人々が苦しい生活を強いられていた。
庭野日敬開祖の略歴:庭野開祖(1906年11月15日 – 1999年10月4日、改名前は庭野鹿蔵)は新潟県中魚沼郡十日町大字菅沼(現・新潟県十日町市菅沼)の農家に、庭野重吉の次男として生まれた。小学校を卒業後、16歳で上京。米穀店や薪炭店に勤め、漬物店や牛乳店を営む傍ら、自分の子供の病気をきっかけに信仰に目覚めた。易学や修験道など様々な信仰遍歴を重ねた末、法華経信仰の道に入る。1935年に法華系新宗教教団の霊友会に入会し、当時教団幹部であった新井助信より法華経の講義を受け師事する。1938年3月5日、かねてより師事する新井の強力な勧めもあり、庭野は長沼政とともに霊友会を脱退し、国柱会出身の村山日襄ら他約30人の信者で法華経をよりどころとする大日本立正交成会を創立(初代会長…村山日襄・初代副会長…石原叔太郎)した。この会創立と共に庭野は日敬に改名し戸籍登録。創立当初の同会本部は庭野が当時経営していた東京・中野の牛乳販売店の2階に置かれた。会の草創期は早朝に牛乳配達を終えた後、自転車の荷台に長沼を乗せて深夜まで、2人3脚で寝る間も惜しんで布教に駆け回った。1943年(昭和18年)村山日襄会長、石原叔太郎副会長がそれぞれ退任。後継として実質の運営・指導者である庭野と長沼がそれぞれ「開祖会長」「副会長」に就任、名実ともに庭野会長・長沼副会長体制がスタートする。同会は、1948年(昭和23年)に立正交成会、1960年(昭和35年)に立正佼成会と改称。
長沼妙佼脇祖の略歴:長沼脇祖(1889年12月25日 – 1957年9月10日、改名前は長沼政)は埼玉県北埼玉郡志多見村(現・加須市)出身。16歳の時に姉の養女となり、天理教に入信。25歳で結婚後、夫の身持ちの悪さから11年後に離婚。その後、41歳で再婚。夏は氷屋、冬は焼き芋屋の「埼玉屋」という店のおかみさんをしていた。40代後半、心臓弁膜症、喘息、胃下垂、子宮内膜炎が悪化し、寝込むことが多くなった。これを聞いた庭野日敬は、霊友会に入ることを勧め、これに納得し、入会した。1938年、霊友会会長小谷喜美との対立から霊友会を脱会し、庭野や村山日襄らと大日本立正交成会(後の立正佼成会)を設立。1943年に副会長に就任。霊力は庭野より強いと言われた。2000年、立正佼成会の発展に大きく貢献し、多くの人々の幸せのために身を尽くした慈母生涯を讃え、庭野日鑛会長から「脇祖妙佼慈道菩薩」の法号がおくられました。

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