林市蔵(中央区)

設置場所:大阪市中央区北浜4-1 淀屋橋南詰
制作者:渡辺義知(1889-1963)
建立時期:1953年秋
建立者:大阪府民生委員一同
画像提供:びがろうさん
林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:林市蔵氏(1867年12月23日- 1952年2月17日)は、熊本藩士・林慎蔵の長男として生まれる。
五歳で父が死去し、母・亀寿により育てられ、苦学して済々黌中学、第五高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。
拓殖務省に入り拓殖務属となる。
1897年7月、拓殖務省の廃止に伴い内務省に移り内務属として北海道局に配属された。その後、警察官僚を歴任。1908年7月、三重県知事に就任。同年12月、東洋拓殖株式会社理事に転じ、1916年11月まで在任。
1917年1月、山口県知事となり、同年12月、大阪府知事に異動した。1918年、現在の民生委員の前身である方面委員制度を、知事顧問(大阪府嘱託)小河滋次郎と共に考案して創設し、府に救済課を設置した。1920年2月3日、大阪府知事を依願免本官となり退官。
以後、日本信託銀行頭取、大阪堂島米穀取引所理事長などを務めた。
本像は、「理髪店の椅子に腰をかけ、生活に困窮する夕刊売りの母子を見つめる姿(和服で横向き)」が表現されている。林氏は「民生委員の始祖」と呼ばれている。

本像横の石碑には、次のように書かれている。
大正七年世界大戦の直後物価奔騰して民衆の苦難甚しく米騒動勃発して世相不安を極めた時の大阪府知事林市蔵先生偶々ここ淀屋橋畔の調髪所において鏡面に映る新聞売母子の憐むべき姿と家庭の窮状に深く心を打たれこれが社会的対策の極めて緊切なるを痛感し府嘱託小河滋次郎博士の調査研究と慎重考慮の結果府下に方面委員を設置せられた
これ我国における民生委員制度の晴矢であり爾来急速に発達して全国に普及され社会事業推進の中核をなすに至った
しかし此の間林先生には終始一貫熱誠を傾けて本制度の育成発達に努力せられたが昭和二十七年二月二十一日その偉業を遺して逝去せられた
我等府下五千名の民生委員は深く先生の高徳を慕いその功績を讃仰すると共に民生委員事今後の発展に資すべくこ乙に本制度発祥の地に先生の記念像を建設しこれを不朽に伝えんとする
大阪府知事赤間文三撰並びに書

Leave Comment