場所:長岡市 河井継之助記念館1Fと2F
幕末の長岡藩家老。
戊辰戦争では、継之助は長岡藩をモンロー主義的な中立の立場として幕府軍と新政府軍の調停役となる方針を貫いた。
会津藩攻めをへの嘆願のため土佐藩士:岩村精一郎と小千谷で談判をする。
継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」との問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに逆に「時間稼ぎの策か」と聞き耳を持たなくなり談判が決裂した。
長岡藩は奥羽越列藩同盟の一翼として新政府と戦うことになる。
一度は長岡城を占領された長岡藩であったが、河井継之助の巧みな用兵により城を奪還。
「北越戦争」と呼ばれる長岡藩の奮闘は 戊辰戦争で最も苛烈な戦いであり、河井継之助の天才的用兵術を有名にするものであった。