百太夫(西宮市)

設置場所:兵庫県西宮市産所町 NTT西日本兵庫支店西宮別館前
台座正面題字:傀儡師故跡
建立時期:西宮青年会議所が昭和四十二年十一月一日建之、施工は岡崎石材店
画像提供:林 久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:(台座正面刻文)人形操り發祥の地
傀儡師は一名くぐつ師とも云い、人形まわしのことであります。現在もこの地を産所と云いますが、中世以来西宮のゑびすさまに係わる人形まわしの一団がこの附近に定住し、傍ら全國津々浦々に人形をあやつりながら、戎神の神徳をわかりやすく説いて廻りました。室町時代の末には、京都の宮廷にも参入して上覧に供したことが屡々記録に見え、またこゝの人形芝居の小屋へは尼崎城主松平候の息女たちも度々見物に来、当時一般大衆に歡迎されてなかなか盛大であったのが、幕末の頃から衰微して逐に惜しくも消滅してしまいました。西宮から操の技を傳えたと云われている淡路や大阪文楽座の人形浄瑠璃は、わが国固有の伝統芸術として尊重され、今日に至っているのであります。 
西宮神社 名誉宮司 吉井良尚 撰
案内板:傀儡師故跡
この附近は昔産所といわれたところで一六九〇年頃には四十軒程の傀儡師(人形操を業とする者)が住んでいた。
傀儡師は遠く平安末期に現われ傀儡子・木偶まわし・人形まわしなどと呼ばれ諸地方を巡廻興行していたが室町時代にはいるとその一部がこの産所の地に住みつき西宮神社の雑役奉仕のかたわら神社のお札を持って諸国をめぐりお得意の人形を踊らせながらご神徳をひろめた。
一五九〇年頃にはその人形芸が 「えびすかき」又は「えびすまわし」といわれて全国的に知られるようになりたびたび京都の宮廷で展覧を受けるまでにもなった。さらにその後発展して淡路の人形座や文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。
しかし一八五〇年ごろから彼らはおいおいこの地からなぜか姿を消してしまった。おそらくは世相の変遷や好みの変化によるものと思われる。
傀儡師らは永らくこの産所の地に住み祖神と信ずる百太夫を崇神して神社にまつり守護神としたがその社は産所の地が一八四〇年ごろに衰微するに至った時すぐ近くの西宮神社の境内に移されて現存している。  昭和六十三年三月三十一日

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