田中幸三郎(尼崎市)

設置場所:兵庫県尼崎市戸ノ内コニュニティーセンター前庭
建立時期:1928 年5月に戸ノ内・北ノ町に建立、1975 年5月に戸ノ内東会館へ移転除幕式挙行、2017 年4月に戸ノ内コミュニティー会館へ移設。
製作者:不明
画像提供:林 久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:田中幸三郎氏(1854-1910)は大阪府箕面村の生まれで、兵庫県園田村戸ノ内の田中家を嗣ぐ。氏は私財を投じて、戸ノ内の治水に貢献された篤志家です。
田中幸三郎君銅像記:越智宣哲撰文、佐藤寛書
(漢文読み下し文)
君、本姓は杉田氏、名は幸三郎。大阪府豊能郡箕面村新稲(にいね)の村民。村を出て、兵庫縣川邊郡園田村戸之内の田中氏を嗣ぐ。君の為人(ひととなり)は温厚篤實。志在りて弘く衆を濟おうとしたので、皆望みをかけた。屡々名誉職に就いて村治に竭力た。明治三十七、八の役(日露戦争)に功有りて、勲八等に叙され、瑞寶章を賜う。部内、田能、椎堂、富田、穴太、法界寺、戸之内凡六區介在す。藻川、猪名川、神崎川の三川の間は、地形が湫隘(低く湿気多く狭小)である。毎歳霖ロウ(長雨が侵す)するし、里人は殆ど其の生活をたのしむことがなかったので、君は常に憂いとしていた。そこで有志と相謀り、以て明治三十七年六月藻川の改修を始めた。しかし、時に日本が露(ロシア)と開戦する時にあたり、兵馬倥偬(あくせくと暇なく)として、事業が殆ど停頓してしまった。君そこで奮然として私事を擲ち、私寶を投じ、更に以て明治三十九年十一月再び工を繼続した。以て明治四十一年一月竣功。初め君は事業半途に當って疾症に罹ってしまった。不治と称されるも、君は平然として、命(天の配剤)という耳。旦に私が死なないということがあろうか、いつか死んでしまうものである。私は事業に日夜奔走して、将に息む暇もないと、言った。其工事が完成して、君も亦それに尋で死んでしまった。實に其歳四月十八日のことであった。それから十八年、今だに里人が毎歳其日を以て仕事を休むのは、敬慕の至りである。頃者(ちかごろ)幸三郎君の子息の敏一君が来て謁えた。余曰く、里人将に先人の為に銅像を建つ。先生に請いて之を記す、系(ちすじ)に因みての詞を以て、詞に曰く、
災いを禦(ふせ)ぎ患いを稈(ふせ)ぐ 死ぬほどの事を務め
君寔(まこと)に何処に居るのだ 宇(たましい)を祀り深く閉ざすべし
况(そのうえ)に斯(ここ)に建像す どうして誌さざるにおかれようか
百年洳(ジョ:湿地)を沮(はば)み 一朝にして楽地となす
(幸三郎氏の)夭(わかじに)嗟(なげ)いて仁人利(とく)を博めようと
里氏が義擧した 斯に其の志を見る
昭和戊辰(三年)五月 寧楽(奈良) 黄華越智宣哲撰文 大阪 昇雲佐藤寛書

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