By ヒロ団長2020年10月5日Category: 13.東京都の銅像, 23区:城東, 60.野口英世, 台東区Tags: 医者 設置場所:東京都台東区上野公園 国立科学博物館前の木立制作者:吉田三郎(1889-1962)除幕式:1951年3月21日画像提供:ヒロ団長林久治⇒銅像探索記/f 設置経緯:野口英世(1876年11月9日 – 1928年5月21日)は、福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となった。 本像横の説明プレートに以下のように記載されている。(画像提供:林久治)野口英世は、明治九年十一月九日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。三十一年、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、三十三年十二月に渡米、三十七年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正七年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に勤めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和三年五月二十一日、現在のあふりか・ガーナ国の首都アクラで没した。享年五十三歳。野口英世銅像は総高約四・五メートル(大石を含む)、制作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、大石にはラテン語で「PRO BONO HUMANI GENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県大玉村出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようた、昭和二十二年より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和二十五年には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。昭和二十六年三月、現在地に造立、月は異なるものの英世の命日である同月二十一日に除幕式が行われた。なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和四十六年に会津会が設置したものである。平成二十八年三月 台東区教育委員会