設置場所:三鷹市大沢6-3-11 龍源寺門前
設置時期:1967年
設置者:近藤勇史跡保存会
制作者:木村恵保(?-1996.11.10)
画像提供:ヒロ団長/林久治⇒銅像探索記
設置経緯:
近藤勇(1834年11月5日- 1868年5月17日)は、龍源寺近くの武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に、豪農・宮川久次郎の三男として生まれる。
幼名は勝五郎。1848年11月11日、勝五郎は江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門する。
勝五郎は翌1849年6月には目録を受け、同年10月19日には天然理心流宗家三代目近藤周助の養子になり、近藤勇を名乗った。
1860年3月29日に御三卿・清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。翌年8月27日には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぐ。
1863年正月、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。近藤ら試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一行と共に京都に向けて出発した。
(近藤の新選組局長としての京都での活躍は有名なので、説明を省略。)
鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)において敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻る。
2月28日、近藤は幕府から「甲陽鎮撫」を命じられ、近藤は「大久保剛」の変名を用いて新選組を甲陽鎮撫隊と改名した。
近藤は3月6日に甲州市勝沼町において勃発した甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で新政府軍と戦うが敗れて敗走する。新選組は4月には下総国流山(千葉県流山市)に屯集するが、新政府軍は3月13日にすでに板橋宿(東京都板橋区)に入っていた。
新政府軍は4月3日には大久保を捕縛したが、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、近藤は板橋宿まで連行され、幽閉される。
近藤は、慶応4年4月25日(新暦では、1868年5月17日)板橋刑場で斬首された。享年35(満33歳没)。
近藤の首は京都の三条河原で梟首され、体は板橋に一度葬られた。
近藤勇の長兄・音五郎とその息子・勇五郎は、処刑から3日後、処刑された馬捨て場の者に金を握らせて遺体の場所を聞き、掘り出した。
親子は夜を徹して遺体を運び、途中、妻・つねと娘・たまが身を寄せていた中野坂上成願寺に寄って、明け方になって生家に戻ってきた。
そのようにして近藤勇の体が葬られたのが、龍源寺と伝わっている。勇五郎は1876年に近藤勇の一人娘・たまと結婚し近藤姓を継ぎ、天然理心流五代目となり、1933年死去。
龍源寺の近藤勇像は、百年祭記念として、1967年に近藤勇史跡保存会により建之された。