井伊直弼(西区)

設置場所:横浜市西区戸部町3-84-8 掃部山公園
初代原型作者:藤田文蔵、鋳造:岡崎雪聲、台石設計:妻木頼黄 
初代除幕式:1909年7月11日、初代供出:1943年
2代目制作者:三代目慶寺丹長
2代目制作時期:1954年6月2日 開国100年祭に再建
画像提供:ヒロ団長
林久治⇒銅像探索記/f

井伊掃部頭直弼(1815年11月29日-1860年3月24日)の立像
井伊直弼像の本体と台石(画像提供:林久治)
設置経緯:1882年頃に旧彦根藩の士族らが、故井伊掃部頭直弼の記念碑建設のため、 この「鉄道山(現:掃部山)」と呼ばれていた丘を買収し、井伊家の所有とした。 それに伴い、当時井伊直弼が名乗っていた「井伊掃部頭直弼(いい・もんのかみ・なおすけ)」に 因んで「掃部山(かもんやま)」と呼ぶようになった。元々は記念碑を建立する計画が1881年に発起されたが、1903年にいたって銅像建立に変更された。初代の像は、1909年6月26日に竣工し、同年の7月11日14時半より除幕式が行われた。立像の高さは1丈2尺(3m60cm)で、「正四位上左近衛権中将」の正装をしている。台石の高さは2丈2尺(6m60cm)。銅像の除幕にあたっては、掃部頭の評価をめぐりひと悶着あったようだ。その上この銅像は、第二次世界大戦の時に金属回収の犠牲となり、供出の憂き目にあった。現銅像は、1954年の開国100年祭に、横浜市の依頼により制作されたもので、その重さは約四トン。なお台石は、創建当初のものが残っている。
台石背面の碑文(画像提供:林久治)
安政五年大老井伊掃部頭直弼は、内外の紛擾を排して、日米修交通商条約の調印を決行し、ひろく通商の基を開き、近代日本發展の端緒をつくった。明治十四年旧彦根藩有志は、直弼追慕のため建碑の擧を興し、大老の事績に縁故深き地を卜し、戸部町に一岡を贖い、掃部山と称してここに造園を施し、明治四十二年園内一角に銅像を建立し、超えて大正三年園地とともにこれを横浜市に寄附した。不幸大戦中の金属回収により銅像は昭和十八年撤去の運命に遭い、公園また昔日の偉なきところ、たまたま昭和二十九年開國百年祭を催すに万り、記念行事の一環として、開國に由緒深き井伊掃部頭の銅像再建と掃部山公園の整備を企画し、広く市民の協賛を求め、ここに復旧の業を興した。
昭和二十九年六月二日 神奈川縣 横濱市 横濱商工會議所 横濱市長平沼亮三書

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