有院遍良(杉並区)

設置場所:東京都杉並区松庵1-9-33 玉成保育専門学校の事務所玄関
制作者:不明
制作時期:不明
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:玉成(ぎょくせい)保育専門学校は創立者ベラ・アルウィンの「汝らは地の塩、世の光である」(新約聖書マタイによる福音書5:13-14)というキリスト教的人間観と普遍的な愛の精神に基づき、同じ建物内にある保育園・幼稚園のこどもたちと「共に育つ」経験をすることをとおしてあたたかい目と心を持った保育者を育てている。有院遍良さん(出生名はSophia Arabella Irwin:1883年11月24日-1957年6月12日)は東京生まれ、通称はベラ。父のRobert Walker Irwin(1844-1925)は米国出身の実業家で、ベンジャミン・フランクリンの子孫である。1866年に来日して貿易業に従事し、1881年から1898年まではハワイ王国の総領事や駐日公使を歴任した。母の武智イキ(1851-1940)は元土佐藩士で浅草橋場町(現・橋場)の海産物問屋、武智惣助の養女で、読み書き、書道、茶道、華道、琴、日本舞踊など、十分な教育を受けていた。二人は1870年から同居を始めたが、正式な結婚として法的に認められたのは日本側で6年後、米国側で12年後の1882年となった。これは、日米結婚の第一号であった。夫妻の間には、ベラを長女として6人の子女に恵まれ、全員米国に留学している。ベラはミス・ハースト・スクール卒業後、コロンビア大学の夏期講座を経て渡欧し、イタリアでモンテッソーリ教育法、ドイツでフレーベル遊戯の恩物を学び、ロンドンの貧民施設で実習するなど児童教育を研究した。帰国後、1916年に玉成保母養成所と保育園(現・玉成保育専門学校)を設立し、学長を務めた。ベラは42歳のとき有名な歴史学者の朝河貫一に求婚されたが結婚に至らず、生涯独身だった。日米開戦後、アーウィン一家は日本国籍を取得することを決め、日本に残った。1942年、彼らは姓を漢字の「有院」に変え、ベラは「有院遍良」という日本名を採用した。
「こどもと夢」(ベラ・アルウィン画)
ベラ・アルウィンが保母養成所と保育園とを創設した経緯
1895年にベラは米国留学のため父方の祖母(フランクリンの玄孫)の下に身を寄せた。ベラは祖母から徹底的な清教徒教育を受けた。1901年に帰国したベラは、結婚適齢期となっていた。しかし、ベラは日米の混血児のため、日本の青年とも米国の青年とも馴染めなかった。一方、ベラは幼児を魅了する不思議な力を具えていた。ベラが伊香保の別荘に滞在中には、近所の子供達に慕われ、別荘で日曜学校を始めるまでになっていた。そこで、ベラは幼児教育に一生を捧げる決心をした。1906年にベラは幼児教育の専門家になるために、欧米に再度留学に旅立った。1911年に帰国したベラは、伊香保に幼児教育のセンターを作る構想を持っていた。しかし、本構想は行楽地・伊香保の住民にとっては有難迷惑の側面が多く、小学校校長が児童に日曜学校に行かないように指示して来た。そのため紆余曲折の後、ベラは1916年に東京市麴町区に借り受けた民家に幼稚園と保育者養成学校を開設した。幼稚園教育を創始したフレーベルは、幼児教育教具も発明した。この教具は日本語では「恩物」と訳されている。フレーベルは球を「自然界における完全なる理想形」と考え、第1恩物に選んだ。ベラは、自分の学園の名前を、自然界における理想形態の基礎となる「球」に取りたいと思い、「玉となる理想」の意味を込めて「玉成」とした。
設置場所:東京都杉並区松庵1-9-33 玉成保育専門学校の事務所玄関

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