坂本龍之輔(台東区)

設置場所:東京都台東区北上野2-15-1 台東区立駒形中学校運動場
制作者:山田眞山(1885.12.27 – 1977.1.29、本名は渡嘉敷兼慎)
除幕式:1922年3月5日、萬年小学校校内
寄贈者:教え子の「龍昇会」(胸像建立は退職記念)
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:坂本龍之輔先生(1870年8月19日 -1942年3月26日)は、日本の教育者。明治期に上野下谷に日本で初めて設けられた貧民学校の校長を務め、その教育実践が、かつての教え子であった添田知道の「小説 教育者」として作品化されて、大正、昭和期に教育者の範として知られた。坂本先生は、神奈川県西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市牛沼)に、坂本源吾之輔、あきの五人兄弟の三男として生まれる。神奈川師範学校(現・横浜国立大学教育人間科学部)に学び、初赴任は、西多摩郡古里村の習文尋常小学校(現・西多摩郡、奥多摩町立古里小学校)だった。その後、神奈川県下で、町田村の日新尋常小学校(現・町田市立町田第一小学校)、大和市の渋谷高等尋常小学校(現・大和市立渋谷小学校)、町田村の開矇(かいもう)高等尋常小学校(現・町田市立南第一小学校)の校長を歴任。その後、1900年に、東京市下谷区の練塀尋常高等小学校に赴任、その後の2年間に東京高師附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、麹町尋常高等小学校を歴任し、1902年、上野下谷に万年尋常小学校が、当時東京の最貧民層の人たちが居住していた下谷の貧困のために就学できないままでいた子どもたちを対象にした学校として開校、その校長となった。1921年5月に心臓病を患って退職。以後は、牛沼の生家に帰り悠々自適の生活を送る。
1992年3月3日の朝日新聞・東京版夕刊の記事
1992年3月6日の朝日新聞・東京版夕刊の記事
上記の記事より、以下の事実が判明した。
 ① 本像の制作者は、山田眞山氏である。
 ②本像の除幕式は、1922年3月5日に萬年小学校校内で東京市長などの列席で盛大に挙行された。胸像建立は、坂本先生の退職記念のようだ。
 ③ 除幕式には、坂本先生も出席され、「感涙を流された」と報道されている。
 ネット記事では、坂本龍之輔像の紹介記事は少々ある。しかし、本像の制作者や除幕式を報道した記事は皆無で、今回の発見は「日本の銅像研究史上」極めて重要である。
本像横の顕彰文
設置場所:東京都台東区北上野2-15-1 台東区立駒形中学校運動場

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