By 林 久治2022年9月2日Category: 00.乱歩(林久治), 13.東京都の銅像, 23区:城北, 文京区Tags: 幕末・明治維新, 芸能 設置場所:東京都文京区本郷1-5-9 宝生能楽堂1階ロビー建立時期、制作者は不明画像提供:林久治⇒銅像探索記/f 設置経緯:近代宝生流宗家3像。向かって左から、十六代宗家・宝生九郎知栄(ともはる、1837 – 1917)、中央は十七代宗家・宝生九郎重英(しげふさ、1900 – 1974)、右端は十八代宗家・宝生英雄(ふさお、1920 – 1995)。宝生流は能楽の一派。現在、観世流に次ぐ第二の規模を誇る。観世流は、観阿弥と世阿弥を芸祖とするが、宝生流の初代は蓮阿弥といい、観阿弥の子で世阿弥の弟となっている。現在の宝生能楽堂は1978年に完成したが、2025年4月に建替えに着工し、2028年7月に竣工する予定である。現在の能楽堂1階ロビーには、近代宝生流宗家の3像が設置されている。 宝生九郎知栄(ともはる、1837 – 1917)は宝生流十六代宗家。宝生大夫・宝生弥五郎友于(宝生流15世宗家)の次男(兄は夭逝)として、江戸・神田に生まれる。明治維新後、能をやめて暫く帰農していたが、やがて宝生流を復活。維新後衰退した能楽界にあってその復興の中心を担い、初世梅若実・桜間伴馬とともに「明治の三名人」と並び称される。また多くの後進を育て、宝生流のみならず、能楽界全体の発展に力を尽くした。 宝生九郎重英(しげふさ、1900 – 1974)は宝生流十七代宗家。宝生嘉内の二男として京都市生まれ。実子のなかった十六代宗家宝生九郎知栄の養子となる。1903年「高野物狂」で初舞台、1909年「猩々」で初シテ。同年一家で東京に移住し、16代目宝生九郎に弟子入り。1917年18歳で宗家を継承、重英と称す。1949年17代目九郎を襲名。1954年「満仲」で芸術祭賞、1954年度芸術選奨受賞。1957年日本能楽会会員、1962年日本芸術院会員。1971年勲三等瑞宝章受章。多くの実力ある門人を育てた。1938年東京音楽学校教授、1945年能楽協会初代理事長もつとめた。子に宝生英雄(18代目宗家)。 宝生英雄(ふさお、1920 – 1995)は宝生流十八代宗家。十七代宗家宝生九郎重英の長男。流儀の統領となるべく生育、若年より英才の名を受ける。戦時中は軍務にあり、中国を転戦、復員後は、先代を補佐して水道橋能楽堂建設に尽力した。1974年に宗家を継承。当時懸案であった新能楽堂の建設に奔走し、1978年、現在の宝生流能楽堂を完成させた。能楽協会理事、日本能楽会会長を歴任するなど、能楽界のリーダー格として活躍、海外公演にも積極的に取り組み、普及を図った。なお、現在の宗家は二十代宝生和英(英雄の孫)である。