青井忠治(中野区)

設置場所:東京都中野区中野4-3-2 丸井本社玄関前
制作者:樽谷清太郎
制作時期:1963年2月17日
移設時期:1994年11月(現在地に新本社竣工により)
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:青井忠治(1904年3月30日 – 1975年8月18日)氏は、株式会社丸井の創業者。生家は富山県小杉の旧家の分家で、一人息子として生まれる。1歳の時に父の事業破綻により母と引き離され、2歳で「はしか」のため左眼を失明。10歳で他家に嫁した母を、11歳で結核を病んで床に臥していた父を失う。1922年富山県立工芸学校(現在の高岡工芸高校)を卒業して上京、月賦販売商・丸二商会に丁稚奉公。瞬く間に頭角を現し、店長等を歴任。1931年2月、暖簾分けをしてもらい、家具の月賦販売店を中野に開店。1935年3月、阿佐ヶ谷支店を開設し、商号を「丸井」と改める。月賦百貨店の草分けとして、中野本店を中心に店舗を展開し始めた矢先、1941年戦時下の商業活動規制により全5店舗の一時閉鎖を余儀なくされた。1945年、終戦を迎えるとすぐに上京して中野に仮店舗を設け、家具の現金販売で営業を再開。1950年月賦商売を再開し、1960年)には「月賦」を「クレジット」と言い換えて、日本で最初のクレジットカードを発行。1965年東証第一部に昇格。1972年会長に就任。「景気は自らつくるもの」という商売哲学を持ち、同社を月賦百貨店業界のトップ企業に育て上げた。1959年全国月賦百貨店組合連合会会長。1973年には私財を投じて青井奨学会を設立した。
本像背面の制作者サイン
樽谷清太郎(1903-1973)氏は彫刻家。高岡市二番町に鮮魚商政男の長男として生まれる。大正11年(1922) 高岡工芸学校彫刻科を卒業し、東京美術学校彫刻科に入学。朝倉文夫・北村西望に師事す る。昭和3年(1928)同校を卒業。在学中、帝展に初入選し、以後8回入選。文展3回入 選・無監査推薦3回出品。日展4回入選・日展依嘱出品。この間受賞2回。昭和23年 (1948)から日本彫刻家連盟事務長を3期務めた。昭和26年(1951)東京都主催日比谷 公園野外彫刻展を創立。昭和35年(1960)東京都豊島区美術協会長、山林美術界彫刻部 代表委員など要職を数多く務める。代表作は堅実で伸びのある裸婦立像「想念」のほか、 「慈母観音像」(兵庫県池田市)、「お鶴とお弓の像」(徳島市)、元運輸大臣の「岡田 勢一郎像」などがある。県内では富山城址公園の「ライオン噴水」が知られる。(なお、青井氏も1922年に高岡工芸学校を卒業しており、青井氏と樽谷氏は同級生であるようだ。)
台座側面の碑文には以下の記載がある。
青井忠治氏は、明治三十七年三月三十日富山県射水郡小杉町の旧家に生まれ幼少にして両親を失ったが、不遇に挫けず、克己勉励県立高岡工芸学校を卒業。単身上京して丸二商店に就職し、艱難に耐えて早創期の月賦販売業を身をもつて学ぶ。昭和六年二月十七日中野店を譲り受けて独立し、後に商号を丸井と定め、昭和十二年三月株式会社に改組して初代社長に就任。不屈の商魂と卓越せる経営理念をもつて斯界ならびに社業の発展に盡され、全國月賦販売業界の雄として不動の地歩を築く。氏は気守壮大にして人情に厚く、明断風の如く実行に敏捷つねに開拓者精神をもつて社運隆々たる今日を成す。茲に創業三十二周年の祝典に当り、その恩顧にあずかる者相寄り、人々の胸奥に、氏の人徳が永くきざまれんことを祈つて、ここに寿像を献げる。
昭和三十八年二月十七日 株式会社丸井 従業員一同 関係会社一同
財団法人修養団主幹 蓮沼門三書
設置場所:東京都中野区中野4-3-2 丸井本社玄関前

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