By 林 久治2023年10月24日Category: 00.乱歩(林久治), 13.東京都の銅像, 23区:城西, 杉並区Tags: 創業者, 女性, 幕末・明治維新, 教育者 設置場所:東京都杉並区和田1-49-8 女子美術大学 杉並キャンパス 校庭制作者:乗松巌(1910-1997、女子美教授) 建立:1966年10月30日 創立60周年記念寄贈:女子美術同窓会画像提供:林久治⇒銅像探索記/f 設置経緯:佐藤志津(1852年1月7日 – 1919年3月17日)先生は、私立女子美術学校(現女子美術大学)第2代校長。常陸国行方郡麻生(現茨城県行方市)の医師山口舜海の長女として誕生。1853年父舜海が佐倉藩御典医で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」堂主佐藤泰然の養子となり佐藤尚中と名を改めると、志津を含め一家全員も佐藤家に入った。1867年、佐倉順天堂の塾生高和東之助(後の佐藤進)を婿に迎えた。志津は父尚中の大学東校(現東京大学医学部)初代校長就任に伴い上京した。夫の帰国後はその留学談に影響を受け、日本赤十字社の活動を通じて婦人会活動にも積極的に参加し、医師の高橋瑞子や吉岡弥生(東京女医学校・東京女子医学専門学校・東京女子医科大学創立者)を支援した。そのような折、私立女子美術学校創設者で舎監兼幹事である横井玉子から、本郷区(現東京都文京区)弓町に開校して半年で経営危機に陥った女子美術学校への支援要請があり、玉子の情熱を感じ取った志津は学校創設の翌年1901年に学校主となり、経財面での支援を始めた。間もなく玉子は胃癌を患らい、1903年1月4日湯島の順天堂病院(1873年開設)で亡くなったことから、志津が前面に出て経営建て直しに奔走し、翌1904年には初代校長藤田文蔵退任の後を受け第2代校長に就任した。 本像の台座に設置された銘盤 設置場所:東京都杉並区和田1-49-8 女子美術大学 杉並キャンパス 校庭