安田善次郎(江東区)

設置場所:東京都江東区東陽2-2-11 明治安田生命新東陽町ビル3階明治安田生命歴史展示室
制作者:北村正信(1889- 1980)
設置時期:1961年10月(旧安田生命新宿本社ビル建築記念)
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f

設置経緯:初代安田善次郎(1838年11月25日- 1921年9月28日)は、日本の実業家で茶人。幼名は岩次郎。号は松翁。安田財閥の祖。富山藩下級武士(足軽)の安田善悦の子として生まれる。1858年、奉公人として江戸に出る。最初は玩具屋に、ついで鰹節屋兼両替商に勤めた。25歳で独立し、乾物と両替を商う安田商店を開業した。やがて安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立し、その後には損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)、東京建物等を次々と設立した。1921年9月27日、神奈川県中郡大磯町にある別邸・寿楽庵に「弁護士・風間力衛」と名乗る男が現れ、労働ホテル建設について談合したいと申し入れたが、善次郎はこの面会を断った。風間力衛は実在の人物ではあるが、神州義団団長を名乗る朝日平吾が詐称したものであった。翌日、再度善治郎のもとを訪れた朝日は門前で4時間ほどねばったところ、面会が許された。午前9時20分ごろ、善次郎は別邸の十二畳の応接間で朝日から短刀で切り付けられ、逃げようとしたが廊下から庭先に転落したところを咽頭部に止めを刺されて死亡した。享年82歳。その後、朝日は応接間に戻り、所持していた短刀と西洋刀で咽喉を突いて自殺した。朝日による斬奸状には、「(現代語訳)悪徳豪商の安田善次郎は巨万の富を築いたがその富豪としての責任を果たしていない。国家社会を無視し、貪欲にして卑しくケチで長らく民衆の恨みを集めている。私はその頑なさを哀れみ仏心と慈しみの言葉で諭そうとしたが悔い改めることはなかった。そのため天誅を加えて世の戒めとする」と記されていた。
東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は善次郎の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付が行われたことは世間に知られてはいなかった。東京大学の講堂は死後に善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。
設置場所:東京都江東区東陽2-2-11 明治安田生命新東陽町ビル

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