設置場所:大阪府松原市阿保5-6-19 保田邸の庭 設置時期:1923年6月上旬建立 製作者:黒岩淡哉(原形、1872-1963)、高尾定七(鋳造) 画像提供:林 久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:保田佐久三氏(1866-1940)の家系は、平城天皇の第2 皇子である阿保(あぼ)親王の末裔と言われています。当地の地名(阿保)は、「アホ」ではなく「あお」と読み、阿保親王の別荘が当地にあったことに由来します。なお、有名な在原業平は阿保親王の第5子です。 幕末のころ、保田家当主は十九代の仁兵衛でしたが、弟の源左衛門は分家して、名も忠太と改めました。6 年後の1866 年3 月、忠太に男の子が生まれました。佐久三と名づけられ、忠太が1886 年に亡くなった後、佐久三は二代当主となったのです。保田さん宅に、佐久三の銅像が建っています。正面台石に「保田佐久三君像 子爵加藤高明 書」とあり、向かって右側に佐久三の事績が藤澤黄鵠によって記されています。左側には、「大正十二(1923)年六月上旬建立」、「発企人」として、松原村の人々の名が27 名刻まれています。裏側には原形制作の黒岩淡哉、銅像制作の高尾定七の名が見られます。佐久三は、1889 年の松原村発足とともに初代収入役となり、1903 年には三代助役に就任しました。1907 年まで助役をつとめた後、1909 年には二代松原村長につき、1922 年まで村政を担いました。その間、佐久三は1907 年から19198 年まで、大阪府議会議員にもなりました。とりわけ、1911 年から19154 年まで、府会郡部会副議長として、中河内郡を代表する政治家として活躍しました。当時は、今と違って村長をつとめながら、府会議員を兼務することができたのでした。佐久三像は、1923 年に、松原村の人々が地域行政に尽くした佐久三を称えて建立したものです。 本像が歴史的に意義を持つのは、一つには加藤高明が佐久三銘を書いたことがあげられるでしょう。加藤は政党の立憲同志会や憲政会の総裁として、桂太郎内閣や大隈重信内閣の外相となった後、貴族院議員に選ばれ、1924 年には内閣総理大臣になりました。二つ目は、儒学者であり衆議院議員でもあった藤澤黄鵠が碑文を書いていることです。黄鵠は、大阪の儒学の塾として有名な泊園書院の藤澤南岳の長男で、漢詩の才能は父に劣らないほどでした。三つ目は、関西彫塑界の生みの親ともいうべき彫刻家の黒岩淡哉が制作したことです。淡哉は東京美術学校教員として、朝倉文夫や高村光太郎を指導しました。大阪へ移った後、四天王寺の普賢菩薩像、四条畷の小楠公像、山科の蓮如上人像の大作を残しました。また、高尾定七は大阪市東区瓦町4 丁目で鋳造を行った工人で、京都の北野天満宮の銅製狛犬や広島県大野町の子持観音像が有名です。