楠木正行(大東市)

場所:大東市 飯盛山・飯盛城址
建立時期:1937年建立(1943年供出)1972年再建。
製作者:黒岩淡哉(1872-1963)
画像提供:丹生偃月斎七郎さん

楠木正成の息子。小楠公と呼ばれる。


設置経緯:(田伐像台座前面の碑文)右の小楠公の像は昭和十二年六月当時の市長矢代氏発起人となり、元小楠公会により故彫刻家黒岩淡哉氏によって制作され建立されたが、昭和十八年大東亜戦によりお國のため供出され、以来今日に至る。
当地在住田伐兼松この再建を思い立ち、京都金井工芸に再建を命じ、四條畷高校所蔵の黒岩淡哉氏の原型をモデルとして再建したものであります。
昭和四十七年十二月之再建 田伐兼松

1 comment

  1. 林 久治 -

    本像の探索記⇒「林久治のHP」の「乱歩」欄に記載された、次の記事をご覧下さい。 
    第 15 回 大阪府大東市飯盛山の楠木正行像と田伐兼松(たぎり・かねまつ)像 幕末には維新志士らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。1867 年(慶応3 年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、1868 年(明治元年)に明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じた。1869 年に墓所・殉節地を含む 7,232 坪を境内地と定め、1872 年 5 月 24 日湊川神社が兵庫に創建された。皇居外苑にある楠木正成の銅像は有名である。これは、別子銅山開坑 200 年記念事業として献納したもので、住友家が 1891 年に東京美術学校(現・東京芸大)に製作を依頼し、同鉱山の銅を用いて高村光雲、山田鬼斎、岡崎雪聲などにより、10 年を費やし完成した。この像は、大東亜戦争中にも供出の対象とならず、戦後も米軍のお目こぼしで、現在でも健在である。
    正成が大楠公と呼ばれるのに対して、楠木正行は小楠公と呼ばれる。正行は大楠公の死後も南朝側として戦い、河内の四條畷の戦い(1348 年)で破れて自刃。1890 年 4 月には正行を主祭神とする四條畷神社が飯盛山山麓に創建された。正行の銅像は 1937 年に飯盛山山頂に建立されたが、大東亜戦争のさ中の 1943 年に台座を残し上の銅像の部分は供出された。戦後の 1972 年に田伐兼松氏の尽力で、正行の銅像は再建された。
    なお、田伐氏の胸像は、本像の隣に設置されている。本サイトの「大阪府北河内地域欄」には、田伐像も収録されている。田伐像台座には、正行像の再建経緯と田伐氏の略歴が貼付されている。私は田伐像の「コメント欄」にこれらの文章を投稿いたしておりますので、是非ご覧下さい。

林 久治 へ返信する コメントをキャンセル